
以前読んだ仙道気功の人の本には、気功の修行が進むと夢の中で師匠が指導してくれるということが書いてあった。
女性や男性の原形のような、アニマ、アニムスのようなもので、その人は男性だったので、夢に出てくる仙女と交わると現実世界より強烈な快感で現実世界がみすぼらしく感じるそうだ。
またとあるブロガーさんは夢見の法で、夢の深層まで降りていって、他人の運命を蜘蛛の糸のようなものを触ることで変えられると書いている人もいる。
またべつのブロガーは別の世界のようなところに連れていかれて、そこでは果物が食べたいと思ったら、果物の樹が生えて、みがグングンと大きくなり、皮まで自分からむけて、切れて口に入ってきてくれたと書いている。
黄泉戸喫と夢の世界
これは創作だと思うけど、あるヨガ教師が薬物使用してトリップする夢見の法に近いものをしていて、房中術なども駆使して繋がった世界が実は餓鬼道であったり地獄界であったりしたという。
やはりその世界で口にするものはえもいえず美味であり、体を交えるとその快感は得も言われぬものだという。
その快感に溺れ、ここは極楽界だと錯覚されらて、魂のエネルギーを吸い取られ、地獄に魂が捉えられてしまうという。
そうならないように、夢の世界ではものを食べたり、体を交えてはいけないという禁忌があるという。
夢などの世界は、その人が善行を積んだなどの「徳分」や、どれだけ煩悩を捨てることができたかなどによってどこまで行けるかが違うという。徳がある人は夢でも極楽と繋がり、徳が無い人は餓鬼界や修羅界や地獄界と繋がってしまうということなのだろうか
食べたいと思うと果物が口に入ってくるのも、自分は人の運命を蜘蛛の糸を触ることで変えられてしまうという万能感も、地獄界からの誘惑かもしれないと思いました。
果物が口に入ってくるというブロガーさんは元新興宗教の信者で、そこにいるうちに欲にかられて生きているうちに地獄界と繋がったのかもしれない。炎上事件を他のブロガーと起こすことで、自分の読者を増やすことをやっていた人だった。喧嘩を売るけど、全て負けていたが、とにかく炎上で見に来る人を増やすためだろう。
夢で蜘蛛の糸を触っていた人は、神仏を足蹴にすることを勧めていて、以前は豊かに暮らしていたけど、現在は経済的に困窮しているという。
もし神仏が日本人や世界中の人が長い時間をかけて造りだしてきた想念体の巨大版だとしたら、そのブロガーさんがいくら読者さんの想念やエネルギーを使って自分に有利な想念体やスタンドを作り上げたところで、古代より連綿とつくりつづけている世界規模の想念体にはかなわなかったと言うことなのかなと思ったりもしました。
魔境を切るために「神仏に会いては神仏を切れ」というのは、極楽世界のものに擬態した地獄界からの誘いを斬れということだろうけど、そのブロガーさんは現実世界の思いで神仏を足蹴にすることを勧めていて、ブロガーさんご本人は魔境に入り込んでしまったようだった。
仙道の人が夢で仙女と交わりえも言われぬ快感を得ているというのも、既にあちらの世界にとりこまれつつあるのかもしれないと思ったりもした。
仙人になりたいから仙道の修行をしていて、ゆくゆくは身体を捨て、あちらのだ世界もこちらの世界にも自由自在に出入りして、不老不死になりたいというのが仙道だろうけど、師匠を夢の世界に求めると、仙女に仙道の手ほどきをうけたり仙女と交わってこちらの世界とは比べ物にならない快感があったにしても、仙界だと思っていたら、餓鬼界や地獄界に取り込まれたりする危険があるのだなあと思いました。
仙道修行をしていても人助けなど善行をたくさんしていて徳が高けれれば、地獄界に繋がることはないのかもしれないけど、金儲けや女色に走りすぎて、徳を積むことをしないでいると、夢で指導してくれる仙女が実は地獄の亡者だったりすることもあるかもしれないなあと思ったりもしました。
プロセルピナがザクロの実を蛇に勧められて食べたために、半分は地下の世界で過ごすことになったり、伊弉諾が黄泉戸喫・よもつへぐいをしてしまったために、元の世界に戻れないというのも、地獄界の食べ物の快感を知って捉えられてしまったという例えかもしれないなあ、とも思ったりしました。
あちらの世界では「よもつへぐい」をしてはいけないという禁忌は、地獄界の快楽に囚われない・地獄界の住人とならないためのための戒めかもしれないと思いました。