とある方から、東京都府中市の大国魂神社の都市伝説をききました。
府中市の大国魂神社の都市伝説
東京都府中市には、都市伝説的なものになるのですが、三輪から出羽に逃れて再び三輪に戻ってきた大国魂命の伝承を聞いた事があります。三輪を追われた大物主は身重の妻・息長姫(息長足帯姫とは言われていない)を連れて東へ逃れていた。しかしながら息長姫は道中で産気付いてしまい、仕方なく出産をする事になった場所が現在の大國魂神社のある東京都府中市だった。無事男児を出産した息長姫と大物主は共に府中の民達の好意に深く感謝し、必ず府中の民にも恩を返すと誓って府中を後にします。何とか無事に出羽に着いたと思ったのも束の間。今度は大物主が病に倒れてしまい、亡くなってしまいます。大物主は妻の息長姫に息子を立派に育て上げて欲しい旨と、息子が再び王として三輪の地を踏む事を願いながら亡くなりました。成人した大物主の息子は父の願い通りに三輪を奪還すべく母の息長姫を伴い出羽から三輪へ「西征」を開始します。この時から大物主の遺児は「大國魂」を名乗りました。彼は自らが産まれた時に両親を匿ってくれた府中の民には手厚い保護を与えます。この時の事を覚えていた府中市の民が創建したのが大國魂神社だそうです。日本武尊が創建したのは間違いだという人がいます。そうして三輪への西征に成功した彼は「神武」から三輪を取り返したそうです。
個人的にこの「神武」は「崇神」の様な気がしました。
三輪の王になった大國魂は、母の息長姫も亡くなると、母の亡骸を琵琶湖の畔に葬ったと伝わります。琵琶湖周辺には息長氏の集落がありましたね。大國魂の母の息長姫は琵琶湖周辺に拠点を置いていた息長氏の娘なのでしょう。息子を連れて出羽に逃れられた所を見ると、出羽とも縁が深い事が解ります。https://blog.goo.ne.jp/yoshi_iltuki/e/df07deb42b8cbb29f9c9be552bca1ee1 より
何か月か前にたまたま雑誌のHONKOWで伊藤ミミカさんが、大国魂神社の霊視をしたら、巨大な赤ん坊がご祭神だったという記事を読みました。
府中で生まれた赤ん坊であった大国魂を祀ったというなら、妙にミミカさんの霊視と符号するのが面白いというか
倭大国魂神社・倭国魂神社・大和神社・大國魂神社は直線上にある
リンクの地図を見ていただくとわかるのですが
倭大国魂神社・倭国魂神社・大和神社・大國魂神社は直線上にある
ことから、倭大国魂神社と大和神社と大国魂神社は何か関係があるように思えます。
淡路島の倭國魂神社がちょっとずれているのは、大和神社から分祀して後世に建立したからでしょうか?
たまたま府中の人に大国魂が助けられたからその地に大国魂神社を建立したわけではなく、私は最初から緯度経度を図って、倭大国魂神社・大和神社などの延長線上の位置に大国魂神社を建立したのだと考えます。
古代人は緯度経度をかなりな精度で測定していたと思われることから、何か意図をもって、古代人は神社の位置を決めたのだと思われます。
倭大国魂は手力男の御魂のことだそうです。
大国魂というときは、普通は「その国の御魂」のことですが、倭大国魂神社・倭国魂神社・大和神社・大國魂神社は直線上にある ことから、大国魂神社の「大国魂」は手力男かどうかわかりませんが、何らかの繋がりを意図して建立されたと考えます。
天津甕星も手力男の子孫
天津甕星は手力男かどうかはわかりませんが、神武の敵の敵は味方ということで饒速日一派と結びついた国栖のようです。
天津甕星も手力男の子孫であり、大物主の一族です。
そしてまた、神武に組した天日鷲命は、系図では手力男の息子の一人です。
大物主・国栖の一族が神武派と饒速日派に分かれて戦っていたとも言えます。
整理すると
関東地方の饒速日・天津甕星派の国栖大物主一族、物部
VS
神武(あるいは朝廷派の国栖大物主一族と物部、天日鷲など)
神武か崇神かわかりませんが、大雑把に国を二分して戦っていたはずです。
戦艦大和の倭大国魂は手力男
大和神社にちなんだ戦艦大和に分祀された「倭大国魂」は手力男の御魂でした。
海神族であり、軍神でもあった手力男が戦艦大和に祀られるのはふさわしいと思いました。
そして手力男の御魂、最初は宮中で祭祀されていたのですが、天照大神とともに宮中から出されました。
倭大国魂神社・倭国魂神社・大和神社・大國魂神社は直線上にある 参照
祀る人の髪が抜け病み、霊威を恐れて宮中から出されたということは、天皇家の直の祖神ということではないということです。ちなみに四国の初代天照大神は手力男の后です。
崇神朝に倭大国魂神を淳名城入姫命に託して市磯邑に祭る、とあって、城上郡の穴師兵主神社の地に渟名城入姫に託して祭ったが、髪が抜け落ち祀れないため、垂仁朝に長尾市によつて現大和神社の地に祀ったそうです。倭大国魂神社・倭国魂神社・大和神社・大國魂神社は直線上にある より
穴師兵主神社の地は、崇神朝のあった土地で、宮中から出されて近くに移動したと言うことでしょう。
大和神社の近くには石上神宮があります。
布留の社の「布留」も手力男のことではないかと推測しています。
十種神宝を饒速日に伝えたのは、大物主・タカミムスビの一族で饒速日が伝えたわけではない
十種神宝を饒速日に伝えたのは、大物主・タカミムスビの一族で、饒速日が伝えたわけではありません。
ある人が石上神宮で霊視したら、十種神宝が朝鮮語だったというのを読みました。
朝鮮半島から来た饒速日の一派が十種神宝を修していたので、朝鮮語で唱えているのが見えたのでしょう。
半島から来た武力を持った饒速日を大物主の一族の国栖(手力男の息子・娘が国栖の祖)が受け入れたのでしょう。
後に神武も来て、神武派と饒速日派に国栖の一族も分かれて争うこととなったのは皆様ご存知のことです。