今日、武蔵の二つの小野神社と御嶽神社にお参りしてきました。
こんにちはななです。 小野神社の赤い社殿を見て、ここは丹生都姫を祀っていたのではないかと感じました。
社の杜が次々に伐採されている最中のようでした。鎮守の森は氏子さんたちのものですので、部外者はとやかく申し上げることはできませんが、明るく風通しは良くなっても少し寂しい気が致しました。
神奈川県の小野神社の祭神は元はアラハバキと春日明神
神奈川の小野神社(神奈川県厚木市)の祭神は元はアラハバキと春日明神です。 
説明板を見ると天下春命や瀬織津姫になっていますが、この社殿はどう見ても朱の女神、丹生都姫のイメージです。

社殿は流造りで水神で、この丹色とあわせると、水と朱の女神丹生都姫を表現していると思いました。
調べてみたら、やはり丹生都姫のようです。
丹生都姫からミズハノメ・瀬織津姫に変えられた
http://members3.jcom.home.ne.jp/1446otfh/ban1000/dusto/tan/tan-11.htm 紀国に丹生神社を祭る「丹生祝氏系図《系図に、丹生祝氏から別れた秩父 丹治氏の系図が載せられていることによる。 多治比氏は武蔵国に縁が深い。「丹治系図《が丹治氏の祖とする武蔵守多治比 広足の兄の県守も養老三年(719)に武蔵守になっている。広足自身は武蔵守のあと、京へ戻って刑部卿や兵部卿を務めたが、裏では 藤原仲麻呂の専横に対抗する橘奈良麻呂派に属していた。東大寺大仏の建立最 中である。奈良麻呂は大仏建立推進派であり、仲麻呂はそれを冷ややかに見て いた。大仏建立のために「続日本紀《には陸奥国から産金の事はあっても、それを鍍 金する水銀の記事はない。ここに秩父が再び産銅ばかりでく、水銀の元になる丹生の産地として問題にな る。秩父の丹党、丹治氏こそ、その担い手だったのである 松田壽男は大和の丹生地帯を現地調査した結果、ニウズヒメがミズ ハノメからオカミに換えられた変遷過程を見出し、秩父でも同じ変化が見られる と指摘している。丹生の採取が尽きて、耕地化するにしたがって祭神もまた取替 えられたのである。 秩父の丹生銀座の丹生津姫は、丹生の採取が終わってミズハノメの水の神に取替 えられたことは既に触れた。秩父の水の神もまた天下春命と共に勧請されたので はないか。そこで、はしなくも水の神は瀬織津姫と呼ばれたのだ。
丹生川上神社も鉱業の丹生都姫から農業の水の女神に祭神がうつっています。
小野氏のことは、もしかしたら、橘奈良麿の変の後、橘奈良麿派であった丹治氏への嫌がらせの意味もあるのかもしれません。
銅や丹の丹治氏のアラハバキや丹生都姫を祀らせないように圧力があったのかもしれません。
それで農業用の水の女神の瀬織津姫に祭神がかえられてしまったのかもしれません。
ちなみに、多治比氏については
聖神社(ひじりじんじゃ)は、埼玉県秩父市黒谷に鎮座する神社 慶雲5年(708年)に自然銅が発見され、和銅改元と和同開珎鋳造の契機となった神社とされる。 第43代元明天皇の時代に武蔵国秩父郡から日本で初めて高純度の自然銅(ニギアカガネ、和銅)が産出し、慶雲5年正月11日に郡司を通じて朝廷に献上、喜んだ天皇は同日「和銅」と改元し、多治比真人三宅麻呂を鋳銭司に任命して和同開珎を鋳造させた、その発見地は当神社周辺であると伝える。ウィキより
やはり銅など鉱物関係の祭神であったと考えるほうが自然なようです。
とすると丹生都姫・アラハバキあたりでしょう
春日大社は藤原氏が春日氏の土地を奪って建立
藤原氏が橘奈良麿の変の後、小野氏と同族の春日氏を春日の地から追い出し、春日大社を建立したことと関係するかもしれません。
不比等の腹心の春日氏と同族の栗田真人が、春日氏に藤原氏に土地を譲るよう説得したらしいのですが、土地を奪われた怒りは収まらなかったようです。
この辺りの事情は 春日神社サイトをどうぞ
春日神社サイトhttp://kasuga-kainan2.com/blog5/bct/492134 和銅三(七一〇)年、不比等が鹿島の神タケミカヅチを奈良の春日山麓に遷して藤原氏の氏神とし、地名を採って春日大社と称します。 その後、神域を広めるために聖武天皇の詔勅をかざし、先住者の春日明神を春日山麓から紀州大野荘へ遷させたのです。 (中略) 例えば井ノ口という地名は、橘姓井口氏が移り住んだ地域を和佐井ノ口、貴志井ノ口と呼び、それが地名になったものです。 南 都から大野荘へ移住してきた春日氏が、当地の三上山を春日山と呼んだのは、明らかに②に当ります。 春日氏が姓を大春日氏に改称し、神号を大春日明神と改め たのは、権勢盛んな藤原氏の氏神春日大社を意識したと推察されますが、それもいっとき一時のことで、やがて旧の春日神社に戻ってしまったようです。 粟 田一族の出世頭は文武朝の中納言で、藤原不比等(六五九~七二〇)の右腕として知られる粟田真人朝臣(?~七一九)です。留学僧として唐で学び、帰朝した 後に再び遣唐使として渡唐しました。 粟田真人が紀州日高郡の海女から探してきた美女を不比等が養女とし、文武天皇夫人藤原宮子となって七〇一年に聖武天皇 を産みます。 宮子姫は髪長姫伝説のヒロインです。 不比等の意を受けた粟田真人から説得されて渋々承知した春日氏は、一族の十人が春日明神を奉じて 替地の紀州大野荘に移りますが、同族の仲介とはいえ、氏神の土地を奪われてはハラが治まらず、姓を大春日臣と改称し、一時は春日明神に「大」を冠して春日 大社を見下すことで、秘かに快哉を叫んだのでしょう。
奈良の藤原氏の春日大社での天児屋根と比売神の地位が低いのは、先祖としてではなく、地主神として、祀られているからかもしれません。
鹿島の神に限らず、氏神はその氏族の祖でしたから、子孫以外は移せないし、その時代は子孫以外が祀ると祟るはずなのです。
鹿島神宮のことにしても、鎌足が鹿島神宮の婿になっており、藤原氏は橘氏とも婚姻関係で、縣犬飼氏ともずっと通婚して、姻戚関係ですから、現在は「子孫」には違いないのですが。
まだそのへんの事情は整理していないのですが・・おいおいと
武蔵小野神社の祭神は瀬織津姫ではなく櫛眞智命
http://members3.jcom.home.ne.jp/1446otfh/ban1000/dusto/tan/tan-11.htm 武蔵総社をめぐって古来から上思議な言い伝えがある。武蔵総社が祭られる以前、 そこに別の神社が祭られてあり、武蔵総社に乗っ取られたというのである。 そし て何時の日か、村民によって祭り直されたのが、多摩川対岸にある式内社の一つ、 大麻止乃豆乃天神社であるという。 その祭神は櫛眞智命神という多摩川の渡しの 神とされ、水の神に縁がないわけではない。 おそらくこの神が横山党の小野氏の前身が祭ったものである。それが近江小野氏 が武蔵に来て、横山党の前身の女に子をもうけ、一族は小野氏を吊乗り、先祖の 系譜も父系の近江小野氏に繋げた。 そして秩父から勧請した瀬織津姫と天下春命 を小野神社として祭ったのだ。その結果、彼ら自身の先祖の系譜は捨てられ、櫛 眞智命を祭る大麻止乃豆乃天神社も破棄されてしまったのである。
小野神社にのぼりが立っていたのですが、こういう絵柄ののぼりなんです。
写真撮ってこればよかったです。

どうして的なんだろうと思いましたが、大麻止乃豆乃天神社だからではないかと
当たる(矢が的中してる)も八卦当たらぬも八卦でもないでしょうが、櫛 眞智命は「ふとまに」の神様だからでしょうか? (下記参照)
こちらの神社は不立文字でヒントで色々語っておられるような。
豆乃・角は・・・鬼の角でしょう。
随身門にたくさんいるじゃないですか。随身門、こちらは随分と気合いが籠ってます。
鬼の系譜が祀る鬼の、というと天河弁財天の弁天さんももとは丹生都姫です。

そして、豆については、恐らくは「ささげ豆」のことも暗示しているでしょう。
細長くて、矢と似ています。
過去記事に書きましたが(現在整理中)、尾張地方近辺で地産地消されている「ささげ」、これは諏訪の小野神社の御鉾さまのさなぎ鈴の舌が「ささげ豆」そっくりなんです。
これは、長野の小野神社にも一度行かねばなりません。
随身門の門客神はアラハバキだとも言われています。
とても立派な門です。 古い神を祭神として出してはいませんが、社殿といい、随身門といい、形を変えてアラハバキや丹生都姫が存在しています。
社殿よりこちらのほうが力入っている気がいたします。


郷社の小野神社
郷社のもう一つの小野神社は、丹生川上神社の上社に雰囲気が似ていました。
丹生川上神社も元の祭神は丹生都姫で、律令国家となってのち、農業用の水の神、みずはのめに取って代わられました。三日比売は丹生都姫 豊雲野大神は・・丹生川上神社は大和にあった 
武蔵小野神社の元々の祭神と言われる 櫛眞智命で、「眞智・まち」を以前に調べたことを思い出しました。
武蔵七党の横山党はこの兄多毛比命の末か、とする人もいます。その人に云わせると、兄多毛比命の名は多摩の男という意味だそうです。
大麻止乃豆乃天神社まではいけませんでした。
他にも櫛眞智命を祀った神社が近くにないかと見てみました。
ありました。郷社の小野神社近くの御嶽神社です。 
もう一つの式内社の小野神社の近くに御嶽神社がありました。
黒猫さんにお出迎えされました。。
小野神社近くの御嶽神社の看板に武蔵御嶽神社から勧請されたと書いてありました。
武蔵御嶽神社 参照

武蔵一宮の小野神社の付近は瀬織津姫ではなく櫛真智命を祀った所が多い
この辺は櫛真智命を祀った所が多いようです。
武蔵御嶽神社
主祭神:櫛真智命
相殿・大己貴命・少彦名命・廣國押武金日命(安閑天皇)
奥宮・日本武尊 御眷族大口真神
あ、武蔵御嶽神社は以前一度いったことがあります。 修験道の山で、狼さんが御眷属のところです。 こちらですね。
狼さんがぴかんと 前に行ったことがあります。

最初は 櫛真智の「まち」は「まつち・真槌」の略だろうとおもいました。
奇し麻槌ともとれます。
それとも、鹿の骨などを焼く「まぢ」もの、占いのほうでしょうか?
櫛真智は「不思議な占い」でしょうか?
太占(ふとまに) 牡鹿(おじか)の肩甲骨を波波迦(ははか)(カニワザクラ、カバザクラ、カンバなど上溝桜(うわみずざくら)の古名)の樹皮を炭火にしたもので焼き、その町形( まちがた、骨の表面の割れ目の模様))によって占う(『古事記』天岩屋戸段)。鹿の骨を用いることから鹿占(しかうら)とも称される。「ふと」は美称 現在でも東京都の武蔵御嶽神社、群馬県の貫前神社で行われている。ウィキより
ピンポンのようです。
天香山坐櫛眞命神社(元名大麻等乃知神) 古事記(天岩屋戸段)
(アマテラスが天岩屋戸に籠もったとき)天香山の雄鹿の肩骨を抜き取り、天香山の波波迦(ハハカ)の樹皮を以て鹿の骨を灼いて占い、神意を伺わせ、また、天香山の枝葉の繁った榊を根ごと掘り起こして来て、云々(大意) 書紀(天岩屋戸段) アメノコヤネ命とフトタマ命が、天香山の榊を掘りとり、枝に珠や鏡・幣帛などを掛けて、皆で祈祷した。・・・またアメノウズメ命が、天香山の榊を髪飾りとして・・・神懸かりとなったように喋り踊った(大意) 書紀(神武即位前紀) 多くの敵に大和への道を阻まれた神武が、天神(アマツカミ)の夢告によって、ひそかに椎根津彦(シイネツヒコ)・弟猾(オトウカシ)を遣わして天香山の社の土(埴土)を取ってこさせ、その土で多くの平瓮(ヒラカ・祭祀用土器)を作り天神地祇を祀ることで、賊を平定することができた(大意) 書紀(崇神紀10年条) 反乱を企てた武埴安彦の妻・吾田媛(アタヒメ)がこっそりやってきて、天香山の土をとって「是は倭国の物実(モノシロ)なり」と助言して帰った(大意)
式内・天香山坐櫛眞神社は天香久山北麓にある天香山神社とするのが一般だが、山頂にある国常立神社との説もある。
「麻知(マチ)--鹿卜や亀卜で、鹿の肩胛骨や亀甲の裏に縦横の線を彫っておくのを麻知形(マチガタ)といい、これを火で灼いて現れた兆を麻知(マチ)という。即ち前兆・予兆
天香語山がでてきます。 もうひとつの「まち」はどこかで出てきました。
ウマシ「まぢ」の記事ででてきました
「麻遅」はなんだろうと思って、探したら 麻遅=摩乳=摩槌のようです 脚摩乳(あしなつち)、手摩乳(てなつち)「日本書紀」、「先代舊事本紀」 地祇本紀 足摩槌命(あしなつちのみこと)手摩槌命(てなつちのみこと)(ささふく神社) 「古事記」など他は手名椎(てなつち)足名椎(あしなつち)の表記が多いです。 麻遅=摩乳=摩槌は 「~の「つち」」=「~の蛇」の意味ではないでしょうか? 歓喜天(聖天)や十一面観音を祀る、待乳山聖天(まつちやましょうでん)は、実は つちの=蛇の=聖天さんの、という意味ではないでしょうか。 誰もそんなことは書いてませんが・・・ 聖天さんの形はリンガ、アラハバキやクナト、地蔵と同じです。 最初はリンガは蛇でした。 過去記事より (注)ただ今整理中です

櫛真智命が渡しの神とされるのは、「衝き立つクナトの神」と同一視されていたからでしょうか?
とこのあたりも伏せんにして、まだまだ続きます。
こちらもどうぞ
小野神社(神奈川県厚木市) 武蔵御嶽神社 丹生川上神社 中社参拝 三日女神は天津甕姫か?
三日比売は丹生都姫 豊雲野大神は・・丹生川上神社は大和にあった