丹生川上神社は
「神武天皇が長随彦と戦うに当り、高倉山にて夢訓を得て、椎根津彦等に命じて天香山の土を取ってこらし、丹生川上に於て神祇を敬祭せらしめた場所です(丹生川上神社サイト参照)」
神武天皇がここで呪術を行った理由は、丹生川上社の元宮が大和神社(旧称は朝和之宮(あさわのみや)で、大国御魂神を祀った社だったからです
神武が天香山の土を取ってこさせたことからもわかりますが、この時の丹生都姫達の本拠地は大和だったようです
四国にも同じ名前の天香山があるのは、四国・大和も海神族が移動して開拓したからではないでしょうか?
丹生川上神社は大和にあった
天香語山の土を持ってくるのは呪術で、日本大国魂大神の神奈備であった天香語山の土と、そのペアであった丹生都姫の丹を用いたものであったと思うのです。酒や水あめということになっていますが、術としては条件が合わない気がします。

水銀 写真はウィキより
大和神社(おおやまと)のサイトより 日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)は大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)で、宮中内に天照大神と同殿共床で奉斎されたが、第十代崇神天皇六年に天皇が神威をおそれ、天照大神を皇女豊鋤入姫命をして倭の笠縫邑に移されたとき、皇女淳名城入姫命(ぬなきいりひめ)に勅して、市磯邑(大和郷)に移されたのが当神社の創建であると伝えられている。(2000余年前) 大和神社のサイトより 天理市新泉町星山 祭神 中殿 日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ(大地主大神) 左殿 八千矛神 右殿 御歳神
神紋 橘
摂社 増御子神社「猿田彦命、天鈿女命」 摂社 朝日神社「朝日豊明姫」 摂社 タカオカミ神社「雨師明神」、延喜式では丹生川上神社の元宮とする。 摂社 渟名城入姫神社「渟名城入姫神社」 摂社 雅宮神社(まさみや)「天押雲根神」
日本の地主さんが「日本大国魂大神」で、丹生都姫の丹生川上神社の元宮でした。
日本大国魂大神が「天香語山」に祀られていたからこそ、「神武天皇が高倉山にて夢訓を得て、椎根津彦等に命じて天香山の土を取ってこらし、丹生川上に於て神祇を敬祭せらしめた」のでしょう。
錦の御旗は丹敷の御旗
錦は「二色以上の色糸で柄を織り出した生地を錦」と呼ぶそうです。 様々な美しい錦はこちら http://kariginu.jp/sozai/sozai1-24.htm 丹生川上神社中社のお守りに、水晶玉を三つ重ねたものがあり、五匹の鮎と背景は普通に想像する朱色の「丹敷」色でした。これよりもう少しお守りは赤っぽかったです。

赤地桐竹唐草錦 http://kariginu.jp/sozai/sozai1-24.htm より
水銀丹の丹敷、丹敷戸畔の「丹」、丹生氏の「丹」の色のことでしょう。
背景に「丹」を使っているから「丹しき」
ヨードチンキのあの赤は水銀の赤
錦は「金の布帛」
たまたまテレビでみた錦の御旗は朱色というより、黄金色でした。金箔も水銀に溶かして、水銀を蒸発させて金箔をはることもあります。
奈良の大仏はそういう手法で金箔が貼られました。 なので、黄金の金色から水銀の朱色までが「丹敷・錦」の御旗の色なのでしょう。 くがにふくふるた・・・金精明神の丹生都姫の「丹敷・錦」
三日女神は甕・三箇姫・丹生都姫・ふるた大明神
三日女神は水銀の炉の「甕」みか・三日・三箇女神でしょう。 簡易な携帯用の炉を持って山に入るのを「三日たたら」といったそうです。 (「天河への招待」大山源吾著 による)
はそう

丹を焼いていた甕です。水銀の井戸を風炉というそうです。
三日は風炉=甕のことかもしれません。 以前は鏡を磨くのに水銀を使っていました。

太陽・日が「三箇・三日」、三鏡が丹生川上神社中社にありました。
水銀の三日たたらの三日姫、ふるた(漢字にするとおそらくは風炉的あるいは仮名交じりっぽく風炉田)大明神の丹生都姫で、三日姫は丹生都姫のことでしょう。

天河弁財天の五十鈴も三日・三鏡だと思います。
鏡は龍蛇のことですから。蔦も蛇・・・葛・国栖も蛇・・

丹生都比売から「おかみ」への変遷
大和神社の摂社の祭神は、水銀や金などの金精明神こと丹生都姫やアラハバキ姫から、中国から輸入された(タカ)オカミ「雨師明神」に変わっていったのでしょう。
中国から「おかみ」信仰が入り、 金鉱脈を掘りつくして、資源が枯渇し、律令国家となり、農業が重視されるようになって、「おかみ」や水分の水が重視されるようになりました。
時代が降るにつれ、鉱物資源も輸入され、吉野などでは水銀採取も廃れていき、丹生都比売大神の代わりに穀物生産のための、おかみや水分信仰が盛んになりました。
そのため、祭神が丹生都比売大神であったのが、ミズハノメのような水神信仰になっていきます。
大縣神社でもアラハバキ・丹生都姫を祀っていたのが、武器なども銅から鉄製になり、銅の採掘も下火になるにつれ、水の女神の罔象女神に変わっていったのでしょう。 丹生川上神社も同様に丹生都姫から高神へと変わっていきました。
「上記の事は古来から高
神が祀られていたと主張するものではない。祭祀跡に同神が勧請されたのであろう。 一説には高麗神であったとも言う。それが高
神に変わる。高麗神も素盞嗚尊の子孫と言えなくはない。」 (神奈備さんの丹生川上神社上社の記事より)
丹生川上神社 奈良県吉野郡東吉野村小968雨師の明神、水神宗社 丹生川上神社(上社:奈良県吉野郡川上村、中社:東吉野村、下社:下市町)の祭神が、上社が高淤加美(たかおかみのかみ)、中社が罔象女神(みずはめのかみ)、下社が闇淤加美(くらおかみのかみ)です
水銀採集の氏族丹生氏などに半島攻略の功があったため、神宮皇后が天照大御神の妹として神領安堵しましたが、 時代が下るのつれ、水銀採掘が廃れ、農業用水としての水の重要度が高まったために、祭神が丹生都姫から水の女神へと変わっていきます。
後に丹生都比売大神は弁財天女と姿を変えて信仰されます。
時代とともに祭神も水と鉱物の丹生都姫から、水分(みくまり)、おかみなどに変わっていきました。
そして「比売」は鉱物資源や鉱業の神としての性格から、中国から新しく輸入された「おかみ」として農業の水の女神に変更されていきました。
ですので、記紀が作成された時は、瀬織津姫はメジャーではありません。
律令制以後、農業の水の女神としてクローズアップされただけだと思います。瀬織津姫は封印されていたわけではないと思います。
むしろ大祓祝詞に読み込まれて、律令国家の農業推進のため、中臣神道がバックアップする存在だったと思います。
比売は丹生都姫アラハバキ姫
「比売」といえば、天武朝くらいまでは丹生都姫やアラハバキ姫をさします。 丹生都姫は水の神でもありましたが、金や水銀などの鉱物資源は重要で、神武天皇も丹生都姫の鉱物資源を狙って侵入しました。
「和歌山市直川(のうがわ)にある丹生神社(にうじんじゃ)は 1192(建久3)年 紀朝臣實俊が尾張国熱田神を勧請し直川郷の総社とします。」 丹生社、総社の両神社は村中に在り一村の産神なり。 社傳に丹生明神は丹生津姫神なり。総社は尾張国熱田の神とある。 丹生神 は本国神名帳に正一位直姫神とある。 当丹生神社は高野の丹生大明神を里上山に勧請して祀りしを、天正年間に今の 地に移し祀る。里上山に丹生の段と云う舊跡がある。 総社明神は尾張の国中嶋郡真清田社祭神大巳貴命にて、当国の一の宮なり。 同神を建久二年に直川郷・紀朝臣實俊当所の領主となりたる時、勧請して直 川郷の総社とす。 古くは当社の前、東西に馬場あり、その東を的場といい、神事に走馬ありし跡 なり。 その祭禮に桃弓棘矢にて武者試馬流鏑馬に悪気を射し所、後世的場と云う字遺 称あり。 旧直川は東西両村に別れ、丹生社は東に祭る神なり。天正年間に総社境内に移 し、それより両社を同所に祀る。一村の産神と祭祀する。」 丹生神社(にう)http://kamnavi.jp/ny/musonew.htmより
直姫神がにうがなまったものなら、直姫は埴(土)姫神で、鉱物の神ということでしょうか?
直姫は井光姫の子孫らしいのです。 そして、丹生都姫と同じ意味の名前の埴(土)姫神の埴山姫のだんなさんがカグツチだったようです。
埴山姫の夫が天香具山で二人でカグツチ
豊雲野大神が、日本国霊
