ちょうど建国記念日ですしね。丹生川上神社中社にお参りする前に河原に降りた。
ここが神武天皇の夢の淵 なので、ここが日本建国の場所になるのでしょう。
丹生川上神社中社 ここは夢の淵 鮎うらゆらゆら
アラハバキ考2 より 丹生川上神社中社 夢の淵 参考資料 を参照してください。
河原で、ふっと携帯を覗き込んだらヒモが写っていた。
見たら紐ではなく光でした。
三川合流の場所はパワースポットと言われています。
タクシー運転手さんは霊能者を案内して、一緒にいると、不思議な事がおこるというけど。
丹生都姫「御杖挿し」の国かかしの旅出発の地
斬られた蛇その2・八岐大蛇 より
丹生都比賣は
丹生の地は鉄産地をも意味したそうです(「徒然なるままに、、、」さんのブログより「鉄の古語」から)。
鉱物の神は丹生都姫、朱の大神、真朱(まほそ)の姫、金精明神、フルタ大明神、弁財天などと呼ばれていた。
吉野では時代が降るにつれ、鉱物資源も輸入され、水銀採取も廃れていき、代わりに穀物生産のための、おかみや水分信仰が盛んになる。そのため、祭神が丹生都比売大神であったのが、ミズハノメのような水神信仰になっていきます。
それ以前は丹生都比売大神が信仰されていました。
アラハバキのアラも鉱物と言われています。
神武天皇によって殺された紀伊のニシキ戸邊も丹敷戸邊と書かれたり、丹生都比賣は丹敷戸邊のことだという説もあります。
丹生津姫を祀る神社では、丹生津姫は獅子が大嫌いで、丹生津姫が獅子に会うと雨が降るそうです。
獅子(狛犬?)トーテムの部族に攻められたからかも・・・
丹生津姫も水銀や鉱物資源を狙われました。
時代は下り、
神宮皇后は丹生氏の協力もあり、反乱軍に勝利した後、吉野の銀峯山山頂で、国見を行った際、丹生氏の祖霊で国津神の丹生都比売大神・朱の大神は伊弉諾伊邪那美の養女という資格で、 天津神に昇格され、天津神丹生都比売大神として、国見したまう、と神領安堵しました。
丹生大明神告文の前段には、
「丹生都比売大神の大神と大御名を表し給いて、川上の水方の峰に上りまして、国かかし給いて・・・」
とある。」(「天河への招待」大山源吾著参照)
丹生大明神告門
丹生大明神告門(ニフタイミヤウシンノノリト)
大御名(おおみな)を申さば恐(かし)こし、
申さずば恐(かし)こき伊佐奈支(いざなぎ)伊佐奈美(いざなみ)の命(みこと)の御子、
天の御蔭(みかげ)、日の御蔭(みかげ)、丹生都比賣(にうつひめ) の大御神と大御名(おおんな)を顕はし給ひて、 丹生川上、水分(みくまり)の峯(みね)に上り坐(まし)て国かかし給ひ、
下り坐(まし)て十市(といち)の郡(こおり)、丹生に忌杖(いみづえ)刺し給ひ、
下り坐(まし)て巨勢(こせ)の丹生に忌杖刺し給ひ、・・・
「忌杖刺し給ひ」とは、神地の四至に杖を刺して標識とし、ここを中心としてその地方を開拓されたという意味だそうです。
「丹生川上、水分(みくまり)の峯(みね)」とあるので、ここで国かかし・国見をしたのでしょう。
「【杖】より…【岩倉 博光】
神功(じんぐう)皇后が新羅(しらぎ)の国主の門に杖をつきたてたと《古事記》にあるのは,杖が占有権を表示するものであったことを示している。このため杖は境界を限る?示(ぼうじ)としての役割を果たし,とくに俗界と聖界の境を示す場合,忌杖(いみづえ)と呼ばれている。また杖立(つえたて),杖突(つえつき)などの地名にまつわる伝説もこれと関連することが多い。… 」(以上、岩倉 博光氏「【杖】より)
しかも、国かかしに加えて、天の御蔭、日の御蔭、まで
天の御影=天の香語山の日陰葛=蘿で、丹生都比賣は太陽神でもあったのです
スサノオが八岐大蛇を切って天叢雲剣(草薙剣)が出たという神話がありますが、
天叢雲剣はたくさんの蜘蛛(鉱業の民)であり、川(水資源)であり、土地のことでしょう
八岐大蛇は以前の支配者である出雲族や崇めるクナト大神の例えなのだろうと思いました
気多大社(石川県羽咋市寺家町・能登国一の宮)の祭神は大己貴命(大国主神)であり、出雲国と越国は古来から関係が深かった。古事記には八岐大蛇は越の国から来たと書かれている。
気多大社は以前は能登の七尾にあったそうです
「海部氏勘注系図」で天香語山命は高志(越)神とも言われています
クナト大神
別名、岐(フナト)の神、幸の神、賽の神、八街(ヤチマタ)の神、道祖神、道陸神。
来名戸之祖神(くなとのさえのかみ)、衝立船戸神(つきたつふなとかみ)、久那斗神
香具山は国かがし(国見)をする山、で
天香具は『沖縄古語大辞典』は、「かがす: 輝す、 輝かす、生き生きさせる、であろう」なので、天かがし、天かかすも「天照」と同じ意味になる
かかし=案山子が出てきました。
案山子はかかし=輝かせる意味です。
そして国見をするという意味になります
案山子は『古事記』の「クエビコ」つまり「山田のそほど」です。
そほどもたたらと関係する名前です。
「サヒはサブ、サビ、サムとも転化し、寒川・寒田、寒河江・祖父江の地名もこれに由来する。
賽神(サイノカミ)というのも本来はサヒ(鉄)の神の意であった。
サヒ、サビ、サム、ソホ、ソブ等、この語類のサ行音は、元来砂、小石を意味する言葉で、砂鉄が精錬されて鉄となり普通の砂や石と違った貴重な性質を帯びることから、サ・シ・ソの性質を帯びることから、サ・シ・ソの一音だけでも鉄を意味することになった。」(「徒然なるままに、、、」さんのブログより「鉄の古語」から抜粋)
案山子神は足は行かねども
「此の神は足は行かねども、尽に天下の事を知れる神なり」と、説明しています。
「尽に天下の事を知れる神」とは、天下の事をすべて支配する神という意味です。
知る、は「花より他に知る人ぞ無き」(花の他に治める人がいない)、や知行国とかいうように、治める・支配するの意味です。
禹歩というのがあります。魔除けや土地の鎮めに使われます。
この元になった夏の禹という人が、足が悪く、その歩き方を模したのが禹歩と言われてます。
案山子神さまは、中国の禹の姿と同じです。
禹(う) かかしかみさま禹(う、紀元前2070年頃)は中国古代の伝説的な帝で、夏朝の創始者。名は、文命(ぶんめい)、大禹、夏禹、戎禹ともいい、姓は?(じ)、夏王朝創始後、氏を夏后とした。「禹」という文字は本来蜥蜴や鰐、竜の姿を描いた象形文字であり、禹の起源は黄河に棲む水神だったといわれている。(ウィキより)
禹=案山子神で、
かかし=そほど=サヒの神=禹
スサノオ(饒速日?)が大陸の神を信仰させようとしたが、先住民は無視したので、藁でつくった大元神をスサノオが斬りまくったという伝承が残ります。
藁で作られた大元神の元になったのはどうやら「禹」のようです。
そして「禹」は九匹の龍という意味の漢字です。九頭竜大神が禹かも
もしかしたら、夏の禹の子孫ではないかと思ったりもしてます。
九頭竜大神は禹?
九頭竜大神といえば、戸隠神社です。
天武天皇12(683)年 信濃遷都計画というのがあったそうです。
天武天皇 信濃遷都計画
天武天皇は多祁御奈刀弥神社を徳島から分社し、元々諏訪にいた戸隠神社の阿多隼人たちは戸隠に移動したそうです。「多祁御奈刀弥神」が諏訪大社となり、手力男命の犬飼氏、思兼命と表春命の阿智祝が戸隠に移動したようです。
もしかしたら、その時、神紋を変えたのかもしれません
徳島にある【諏訪大社 元宮】多祁御奈刀弥神社の神紋は、戸隠神社の鎌卍と同じです。
戸隠神社の鎌卍
守矢家の家紋と同じく、戸隠神社の鎌卍も元は太陽十字で、隼人との繋がりをおもわせます。
戸隠神社は竹に象徴される阿多隼人の天児屋根が祖であるからです。
懸犬養氏・倭文氏が本当の天津甕星の系譜 天津甕星は阿多隼人 参照
戸隠神社の代々の宮司は犬飼氏です。山師は犬を連れて山を歩き、犬の嗅覚で鉱脈が地上に露出している所を探した
丹生氏の氏神、狩場明神さん(大名草彦)が犬を連れている
戸隠神社鎮座考 より
犬養縣ノ犬? の二氏は倶に手力男命の子孫なれは神詫(託)によりて仕奉る事と成ねるを
その由縁あり又この信濃国に犬養と称ヨふ地多く
あるもその初この氏人の領けるより起れる称ナなるへし
幣立神宮参拝(2) 神陵と西御手洗 天津甕星は阿多隼人も参照
犬飼神社は天応元年(781)、朝廷から信濃にて20戸の封戸を受けた葛木犬養神に由来
阿智神社(昼神神社)
天八意思兼命(あめのやこころおもいかねのみこと)は
御児天手力男神(あめのたじからお)と天表春神(あめのうわはるのみこと)を引き連れて
信濃国阿智の里にお降りになりました。
思金神が”天照神が岩戸にこもって世の中が暗闇になった時に、
岩戸から救い出し、再び光の世(昼)に戻した阿智神社 http://www.geocities.jp/engisiki/shinano/bun/shn250102-01.htmlより抜粋転載
社伝によれば人皇第8代孝元天皇5年春正月天八意思兼命御児神を従えて信濃国に天降り、阿智の祝(はふり)の祖となり給うたと伝えられ
先代旧事本紀に高皇産霊の尊.児天八意思兼命、その児天表春命と共に天降りまし信濃国阿智祝等の祖となるとあり
八意思兼神の御子の天表春命は戸隠神社の祭神武蔵秩父國造、壱岐県主等の祖
弟の天下春命は秩父神社と小野神社の祭神であり剣術の一刀流の祖神
http://members3.jcom.home.ne.jp/1446otfh/ban1000/dusto/tan/tan-11.htm
武蔵の横山党が小野氏を吊乗る以前、 つまり小野氏との関わりが生じる以前、何と吊乗っていたか計り知れないが、瀬 織津姫や天下春命は祭っていなかったはずである。では何を祭っていたのか。
武蔵総社をめぐって古来から上思議な言い伝えがある。武蔵総社が祭られる以前、 そこに別の神社が祭られてあり、武蔵総社に乗っ取られたというのである。
そし て何時の日か、村民によって祭り直されたのが、多摩川対岸にある式内社の一つ、 大麻止乃豆乃天神社であるという。その祭神は櫛眞智命神という多摩川の渡しの 神とされ、水の神に縁がないわけではない。
大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのてんじんしゃ、おおまとのつのやしろ)については
『延喜式神名帳』に記載されている大和国十市郡の天香山坐櫛眞命神社(現 天香山神社)に「元名 大麻等乃智神」との注記があることから、当社も天香山神社と同じ祭神であろうウィキより
小野神社の祭神は櫛 櫛眞智命=天香山命神?
櫛・・櫛眞智命神・・?? 昔の櫛は棒や矢のようなものです。ちょうどこの写真のような
もしかして、櫛眞智命神 とはこういったもののことではなかったか?
大麻止乃豆乃 おおまとのつの は大きな的(やまと?)の角=尖った矢のようなもの
水神なのか、龍神か、昔の人はこれを肉眼で見て、櫛眞智命神(櫛で繋ぐ・刺す神)と表現したのでは?
まちは「まち針」のまちでしょう。角は、鬼には角があります。
あるいは「まつち」で「真ツチ」、くしまちは「奇し真槌」で、「美しい蛇」の意味かも。
蛇はオハセに例えられます。
矢もオハセも突きさすもの
案山子神も地面に突き刺さっています。
天かがし、天かかすも「天照」と同じ意味になる
水に太陽の光が差す=櫛眞智 ではないか?
水と日の結婚が 火水 神
神は串・申に示す=櫛眞智
クナト大神は櫛御気野命
クナト大神は「出雲國造神賀詞(かんよごと)」の中で、 伊射那伎の日眞名子、加夫呂伎(かぶろぎ)熊野大神櫛御氣野命(くしみけぬのみこと)と呼ばれている
伊射那伎の愛され給う御子にして古来よりの尊い神なる熊野大神の櫛御気野命(くしみけぬの命)
クナト大神が熊野大神であり、家津美御子大神です。
(出雲國造はの代替わりの度ごとに朝廷に参上して出雲国造神賀詞を奏上して天皇に忠誠を誓う慣わしがあった。その時、出雲國造神賀詞がよまれた)
スサノオの部下の天ホヒの子孫が出雲国造(こくぞう)となったために、スサノオ(饒速日?)も出雲国造神賀詞に取り入れられたのでしょう。
出雲サイドが天香語山を聖地としていたので、なんとしても神武天皇は丹生都姫が忌杖刺し給ひし「国かかし」の旅の始まりのこの地で、天香語山=クナト大神=櫛眞智命神 の土で、儀式をしなければならなかったのです。
「忌杖刺し給ひ」とは、神地の四至に杖を刺して標識とし、ここを中心してその地方を開拓されたという意味だそうです。
衝き立つ くしまちの神
続きます

