井光姫のおとさん大戸さん
今まで、「天津神」というと天孫族と同じと思っていました。
向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊を調べていて、縄文以前は温暖だったために、縄文人たちは涼しい高山に住んでいたらしいことがわかってきました。四国などに高地の居住跡が残っています。
弥生時代以降、日本が寒冷化したたために高い山(高天原)から降りてきた人達を「天津神」といったのではないかと
縄文人は手足が長い人だったため、手長・足長とか、蜘蛛などと呼ばれたようです。
侏儒と中国の史書に書かれているから、やはり小柄なのでしょうか?
コロボックルのような人達だったのでしょうか。
アイヌの人達も手足が長くて「蜘蛛」という表現に当てはまりますが
高い山・高天原から降りてきた縄文人も天津神?
今も四国の高い山には石垣などが残っています。これも過ごしやすい高山で暮らしていた住居跡でしょう。
先日尋ねた井光姫の里(井氷鹿の里)は700年くらい前に下のほうに降りてきたそうです。
井光姫たちが信仰していたおとさん(大戸さん)に行く途中に昔の井光姫の里の石垣がありました
井光姫の里には泊まった民宿の方が車で連れていってくださいました。
お話を聞かせてくださる方に連絡もしていただいて、ありがとうございました。

井光姫の里の人と後南朝ご末裔が語り合う姿
南朝家臣末裔と井光姫の里の人と後南朝ご末裔が三人で語り合っていたのは、今考えると、なにやら不思議です。
お話聞かせて下さった方もありがとうございました。
井光神社のご神木の樹齢は700年くらいだそうです。
井光神社のご神木

下に移住したときに、植えたそうです。
戸隠神社の三本杉も樹齢700年くらいだそうです。1300年ごろに何かあったのでしょうか?
おとさんのところに行く道すがら古い石垣あり、ここがもとの井光姫の里だったんだと思いました。
井光神社の拝殿の中側

井光神社の拝殿の中側にはおとさんのところから持ってきた上が尖った石がありました。
おとさんがご神体のようです。
おとさんも三角っぽい岩でした。
おとさんは、お戸さんで、やっぱり天岩戸の御戸さんなんだろうなと思いました。

井光姫が神武のために、お戸さんに矢を捧げて祈った、天岩戸神話の天岩戸のモデルだそうです。
戸隠も岩戸で手力男つながりで、700年前くらいに何かあって、戸隠に移動した集団がいたのでしょうか???
手力男を祖とする犬飼さんたちのようですので、そのときに手力男神話も移動して、九頭竜さんと習合したのかもしれません
井光神社 ご祭神はおとさんのようです。



こちらは拝殿に向かって左にあたります。
写真はないですけど、何故か日露戦争時の砲弾が置かれていて????
西側なのに、何故かこちら側に伊勢遥拝の石碑が置かれている。(伊勢神宮はここからは東方向)
説明してくださった井光の里の方が
「これ向いの石碑と逆なんじゃないか? 今度何かあったら位置交換するか!?」
とかなんとおっしゃってて、一体なにを拝みたかったのか???
家に帰ってから
西の古語、以西(いせい)→伊勢で、伊勢はカモフラージュで、もしかしたら、西に拝みたいものでもあったのかしらん? 高天原があった・・・????
尾張弁も南を「いなみ」といいます。これと同じで、古語が残っているのでしょう。
(今は老人も知らないかも。祖父母が古い尾張弁使っていたので)
もしや西には・・・・