覆面の安曇磯良は玉垂命 住吉さまはヒコナギサタケ
引用の「高木の大神系のたくはたちじひめ、ヘブライ人」のヘブライ人は色黒小柄だったんでしょうか?
神相撲で住吉さまは色黒小男として表わされます。
こちらが「海幸彦」系?
こちらのルナさんの記事を見ると玉垂命が安曇磯良、住吉はヒコナギサタケであることがわかります。
http://lunabura.exblog.jp/24466424/
玉垂大菩薩が誰であるのか。私は「安曇磯良とその奉斎する綿津見の神」という立場を取っています。
安曇磯良とする証拠も見つかりました。
22条(祭礼の次第の事)一、大菩薩抱き奉る次第の事、覆面の絹一疋、(略)
高良大菩薩に奉納するのが「覆面」の絹です。これこそ安曇磯良の顔を覆う白い布だと思います。
40条(幸行有る時の次第の事)
一、住吉の御鎧白糸、八幡の御鎧黒糸、大菩薩御鎧緋縅。(略)赤い糸!高良大菩薩です。そして、神紋は木瓜(もっこう)。
311条【訳】高良の御紋の木瓜(もっこう)のこと。
神功皇后が筑前国四王寺の嶺で大鈴を榊の枝に掛けて七日間、異国の退治を祈られた時、東の空に白雲が現れ、四方に開けて四方に光を放ち、四王寺の嶺に降られた。
四方に開けた白雲は四天王である。御紋の中に四本の鉾を抱えているのは四天王の鉾である。これをそのまま門光(もんこう)と名付けた。
異国追伐の時の高良の御紋はこれである。四方に光を放っているので門の光と書く。高良、四天王に従して天下られる所を四王寺が嶺と名付けた。
これが高良山の御神紋の木瓜紋で、門光とも書きます。
神功皇后が四王寺山で祈った時、白雲が現れ、四つに分かれて光を放ち、その中央には四天王の鉾が現れたということです。
<住吉明神>
神紋は「五七の桐」。横向きです。これを「桐の臺(とう)」ともいいます。
309条【訳】住吉の御紋に桐の薹を使われることは、鵜戸の岩屋でウガヤフキアワセズの命をお生みする時、御産屋に桐の葉を敷かれたことによる。
産屋の傍の板も桐の木である。その桐の木、桐の葉を採った所を桐嶋と名付けた。これにより、異国を攻められた時も桐の薹を御紋として御攻めになった。
住吉と申すはヒコナギサタケの御ことである。
住吉神はウガヤフキアエズの事だと書かれています。産屋(うぶや)に桐の葉を敷いたことから桐の紋になったと書かれています。
住吉=ウガヤフキアエズ
(太字と画像添付は筆者)
高良玉垂命は安曇磯良だとわかりました。神宮皇后の半島出兵のときは、もう安曇磯良は亡くなっているでしょうから、高良玉垂命は安曇磯良。
安曇磯良は井光姫の父白雲別命か?
神武天皇を助けた吉野の井光姫のお父さんは白雲別命といいます。
白雲別命はどこにも出て来ない、丹波のほうの山に降り立ったらしいというのはわかっています。
「白雲が現れ、四方に開けて四方に光を放ち」(追記: これはもしかしたら、輝く星がガスの中で光ながら現れるという事?)
井光姫のお父さんは白雲別命ではないのでしょうか?
だとすると、井光姫のお父さんは高良玉垂命こと安曇磯良

そして紀氏が入る前の紀州の王・太陽王は手力男らしいことがわかってきました。
神宮皇后の影響で、「住吉明神」と安曇磯良を一緒に祀ったために混同したのかもしれません。
地元吉野では丹生都姫たちが船で移住してきて、ヤタガラスたちは山に追いやられて、それで神武側についたことになっています。
追いやられたのが安曇磯良たちで、安曇磯良の子孫の井光姫たちがヤタガラスとして神武天皇を助けたなら辻褄が合います。
ところが勢力を持っていた紀氏の祖天道根が紀州を治めることになって、井光姫の父白雲別命は日前宮などには祀られないことになったなら、井光姫たちはがっかりしたと思います。
丹生都姫・名草戸部は大柄らしい
名草戸部の子孫のあの小野寺さんが、昔、おこべ神社には名草戸部かどうかわからないけど、骨があって、大柄な人のものだったとおっしゃってました。
ポリネシアンならメネフネなど小柄な人とすごく大柄な種族といますけど、丹生都姫や名草戸部もポリネシアンだったのでしょうか?
丹生都姫たちに追いやられたヤタカラスたちは小柄だとおっしゃってました。

絵巻では犬飼明神こと丹生都姫の子(子孫)大名草彦は大柄に描かれています。
空海と対比すると大男だったのがわかります。
犬飼明神だけに神魂命の子孫なのでしょうか?
井光姫のご末裔の天河弁財天の宮司様は大柄です。息子さんも大柄です。
安曇磯良の子孫は丹生都姫の系統と結婚して、大柄になったのでしょうか?
それとも、違う氏族なのでしょうか?
むしろヤタガラスはメネフネ伝説やコロポックルのように小柄だとすると、ヘブライ人ではなく南方系の民族だと思います。神武を案内したヤタガラスは小柄だと言われています。
「弥五郎どんは山幸彦です。山幸彦の別名はおおやひこ、弥五郎どん、北陸の弥彦神社もみんな山幸彦」http://www.sysken.or.jp/Ushijima/momoshimaworld.html より
弥五郎どんはすごく大きいです。
小柄な海幸彦系に対して、山幸彦は大柄なようです。
九州の意味は九鼎からきていて、「中国」という意味です。
でも元々中国には日本人の先祖たちがいたのです。アーリア人の血が入った漢民族に南方に追われて、日本に来たのです。
彦星・犬飼星は「九曜の星」とも言います。
古代より、世界共通で九曜紋を使うのは王の印とされています。


手力男は古い太陽神とされました。
太陽王だった名残が「九曜の星」であり、九頭竜大神・九頭竜弁財天に象徴されていると思います。
安曇磯良は表に出られないので覆面なのでしょう。ヤタガラスとして表に出ないのでしょうか?
太力男が、春日大社などで「細男」として演じられています。
春日大社 若宮おん祭より「細男(せいのお)」部分
鈿女の「うず」はウトゥで、太陽を意味します。でも「太」とは書かないで「細」とするのは封じ込めでしょうか?それともただの当て字でしょうか?
「戸神神社鎮座考」では「せいのお」は「背男」は「ヤオ・塞男」であろうと書かれています。港という境界を守る神、船戸の神・岐神という意味です。
やはり手力男が船尽神であり、高良玉垂命・安曇磯良でしょう。
安曇磯良のお墓と船盡神社と蚕神社の三柱鳥居と同じ形
安曇磯良のお墓は海の中にあり、船盡神社の真ん中に石がある三本柱と同じです。
そしてそれは蚕神社の三柱鳥居と同じ形です。
写真はWikipediaより

木島坐天照御魂 コノシマニマスアマテルミタマ
もしかしたら、手力男のことかもしれないと思いました。
熊野の古い太陽王を祀っているのかもしれません。
木島は貴島(州)→紀州・貴船
五十猛は鬼神、弁天さまも鬼
そして五十猛のお墓は出雲の鬼神神社にもあります。
日本書記によると、スサノオノミコトは、子供であるイソタケルノミコトを連れて、
新羅から「鳥上峯(船通山)」に降り立ちました。
この時、スサノオノミコトが乗って来た埴土船が岩化したと伝えられる巨石の「岩船大明神」が鬼神神社の鳥居右手に祀られています。
『スサノオノミコト』・『イソタケルノミコト』が御祭神で、神社裏手の山には「イソタケルノミコトのご陵墓」と伝えられる古墳があります。https://www.okuizumogokochi.jp/4995
埼玉県の嵐山町の鬼鎮神社(きじんじんじゃ)
御祭神:衝立久那止命(つきたつくなとのみこと)、八衢比古命(やちまたひこのみこと)、八衢比賣命(やちまたひめのみこと)
こちらの節分の掛け声は「福は内、鬼は内、悪魔外」、これも天河弁財天の節分と同じ。
天河弁財天の宮司様は井光姫の子孫ですが、役小角の弟子になって、前鬼と呼ばれています。修験者です。
鬼と弁財天さんが繋がって来ました。
やはり賢木厳御魂天疎日向津比賣は船盡比賣で弁天さま貴船神社の女神、
安曇磯良・五十猛は鬼神の手力男ことは船盡神で向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊
鬼というのは「穏」で隠されているもの、表に出ないもの、でも最先端の知恵と知識と強大な力を持っている。。。。それを安曇磯良の覆面は表現しているようです。
八つの太陽を射落としたり、「鬼」の字を矢で射たり、これは古い太陽王を殺し、新しい太陽王とするための儀式なのでしょうか?

九鬼から八木(鬼)を引くと、木は一本になります。
八本の矢は中心の太陽から放たれる矢(屋)(八木)であり、太陽光線の輪宝 ☸ です。

紀伊國伊都郡丹生川上天手力男意氣績ゞ流住吉大神は、現在は相賀八幡神社 (和歌山県橋本市胡麻生237)『南海道紀伊国神明帳』によると「天手力雄・気長足魂・住吉神とあり、」
住吉明神と手力男と気長足魂(神宮皇后?)で、向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊 はもしかしたら住吉明神と手力男こと安曇磯良を混同させた名前かもしれません。
気長足魂(神宮皇后?)も神宮皇后を祀っているようですが、姫神も神功皇后に置き換わってしまったのかもしれません。https://prt2.tukiyononeko.net/mukate.html星神 向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊は手力男・天津甕星



次回以降に系図を詳しく比較していきます。

