向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊 関連でもう少し
大・・・おおきい。多い。
歴・・・へる。とおる。
万葉仮名で読むと恐らくは、「おおふ・おおと」で「覆う」「大戸」「大船」とも読めます。
「おおと」で思い出したのが、井光姫のいひか・いかりの里のおとさん
大戸と書くそうです。研究者の中には大塔宮の大塔と書く方もいらっしゃいますが、地元の方は大戸と書かれるそうです。
井光姫の里(井氷鹿の里)のおとさん・大戸さん
おとさんは岩です。大石=大歴です。井光姫が神武のために戦勝祈願した岩です。

井光姫の里(井氷鹿の里)のおとさん・大戸さん
里の人は親しみを込めて「おとさん」と呼んでました。
おとさんにお参りに行ったと言ったら喜んでおられました。
おとさんは愛されているんだと思いました。
御船の滝
おとさんは井光川を遡った御船の滝から昇った山の上です。
御船の滝というのも気になります。 御船の滝はそれはそれは気持ちのいいところでした。

面ぞ大石 面ぞ覆いし
安曇磯良は海の中にいて、顔を牡蠣が覆って醜いために、覆面をしている設定です。
おとさんの写真を見て思ったのですが、おとさんは牡蠣殻におおわれているようにも見えます。
おとさんは安曇磯良か、おとさんを安曇磯良に見立てたような気もいたします。
安曇磯良は踊りが大好きなので、やはり隼人ではないでしょうか?
もし、高良玉垂こと安曇磯良が井光姫のお父さん(祖ということもあります)の白雲別命なら、木瓜紋の由来と白雲別の名前からして、https://prt2.tukiyononeko.net/tamadare-isora 参照
おとさんはもしかしたら安曇磯良の依代で、
安曇磯良は、おとさんの様子から顔に牡蠣殻がついていることになったのではと思いました。
船盡(ふなはて)神社 「船尽神社」のご祭神 天手力雄命
伊太祁曽神社(祭神 五十猛)が現在の社地に静まる以前には、日前神宮・国懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかがすじんぐう=通称:日前宮にちぜんぐう)の社地にお祀りされていたようです。
安曇磯良は五十猛命とも言われています。磯建良で五十猛命
紀州(貴舟)では手力男が以前は「太陽神」として祀られていました。
国懸神は手力男とされています。https://prt2.tukiyononeko.net/mukate
「面ぞ大石」と解釈でき、転じて
「顔は大石」と解釈すれば、安曇磯良はおとさんの擬人化か、それとも安曇磯良という祖神がおとさんを依代としたと考えられないでしょうか?
三本柱の三角は天御中主を祀ったもの?
男聞襲大歴を「おもぞおおいし」と読んだときの
覆面の安曇磯良のお墓は海中にあり、三本柱で三角の中に石を置いたものです
船尽神社 にも同様のものがありました。真ん中に石があり、これが安曇磯良が顔に牡蠣を付けているようにも見えます。
下の写真はWikipediaより こちらも本来は水の中にあります。

木島坐天照御魂 コノシマニマスアマテルミタマ
というのはもしかしたら、手力男のことかもしれないと思いました。木=紀、島=州の意味ですので、
紀州・貴船 「貴船(太陽の船)・紀州(貴い中州=島)にいらっしゃる天照の御魂」
ということは、貴船は「太陽の船(貴船)の天照の御魂」になります。
安曇磯良のお墓とされているのは、「あまてる・天照」こと天御中主を祀ったものではないでしょうか?
太陽神というより、星でしたら、古代は夜空にひときわ輝いていた星があったそうです。
「たなばた」は日神を産む神 西の織姫・東の彦星(犬飼星)
伊勢の内宮の手力男は東殿にいます。
織姫と彦星(犬飼星・手力男)は貴船という太陽の船で、夜太陽を太陽の船で運び、昼の太陽の船が昇る前に天岩戸を開けます。
オリオンは大犬座・小犬座を連れる→犬飼→犬飼星=彦星=手力男 となったのでしょうか
七夕の彦星(ひこぼし、牽牛星(けんぎゅうせい)アルタイル・わし座α星・犬飼星
そして織姫は西殿にいます。織姫星です。ベガ(ヴェガこと座α星)
ベガは、アラビア語で「急降下するワシ(ハゲワシ)、アラビア名は「(木の枝に)留まっているハゲワシ」
参照
https://prt2.tukiyononeko.net/amatumikaboshi5
https://prt2.tukiyononeko.net/mizutokunokeifu
七夕姫と彦星犬飼星と太陽神の三柱で、天照=天御中主
隼人はワシからきているのではないでしょうか?
「木」に泊まっている「ワシ」、高木神は鷹木神・・・
高御産巣日神は・・・高い木の巣(洲)にいる日神を産む神
こういった連想で、神名をつけたのではないでしょうか?
海=あま=天
そうしますと、「天照」は、二神の親の「天御中主」にあたるのではないでしょうか?
天照は女性で、星神の天御中主のことかもしれません。
とすると、海の中の安曇磯良の墓とされているのは、天御中主の象徴に思われます。
(瀬織津姫と天御中主は別神です。建水分神社では天御中主と瀬織津姫は別神として祀っています)
七夕姫と彦星(犬飼星)と太陽神の三柱で、天照=天御中主
天御中主と菊理姫 廣田神社の撞賢木厳御魂天疎日向津比賣
九州の水天宮では天御中主は白山菊理姫とされているそうです。
今までのことから
撞賢木厳御魂天疎日向津比賣は廣田神社のご祭神菊理姫と思います。
建水分神社でも瀬織津姫と天御中主は別の神としてまつられています。
廣田神社の以前のご祭神が瀬織津姫だったのは、中臣神道によって、菊理姫から瀬織津姫に変えられたのではないでしょうか?
それで本来の菊理姫に戻したのではないでしょうか
武蔵一宮の小野神社も櫛真智命から、瀬織津姫と天下春命にご祭神を変更しました。
櫛真智命も高木神の子(子孫)です。
橘奈良麿の変の後、丹生都姫を祀っていた丹生氏は橘奈良麿側であったために藤原氏に迫害されて、ご祭神を櫛真智命と丹生都姫・アラハバキから瀬織津姫と天下春命に変更したようです。
神奈川の相模の小野神社はご祭神はもとは春日明神とアラハバキです。天下春命に変更したそうです。現在も境内に春日明神とアラハバキが祀られています。春日氏と同族の小野小町の伝説も残ります。小野氏と春日氏は同族です。
奈良の春日大社の土地は本来は春日氏のものでしたが、藤原氏が権力に物言わせて春日氏を移動させたそうです。春日氏を説得したのは、春日氏と同族の粟田真人(あわたのまひと)。
粟田真人は不比等の腹心です。粟田真人は海人族の宮子を不比等の養生としたそうです。(春日神社のサイト参照)
藤原氏は鹿島神宮の鹿島明神の神霊を橘氏に命じて春日大社に鹿で運ばせます。
橘氏に春日大社も建立させます。
鹿島明神が安曇磯良です。春日明神は橘氏の娘を依代にしたことがあります。(過去記事参照)
古代の神は子孫以外に祀られると祟るので、縣犬飼氏と結びついて軍神安曇磯良を祖神として獲得することは藤原氏にとって重要だったのではないでしょうか?
織姫は水に潜るので菊理姫(くくり姫)
織姫は水に潜り新しい太陽王を誕生させます。それ故くくり姫・菊理姫
隼人たち海人も水に潜ります。
白山かどうかはしりませんが、水に潜る隼人や海女が投影されて、水に潜るくくり姫(菊理姫)とされたのではないでしょうか?
オキノタナバタが七夕姫
ナダノタナバタが彦星
船盡神社の「歯の辻神社」は当て字で、歯の辻=八の辻=天上界にある八路の辻・天の八街(やちまた) のことではないでしょうか?https://prt2.tukiyononeko.net/tukisakaki-hiura 貴船神社の船盡比賣命は撞賢木厳御魂天疎日向津比賣 内宮の栲幡千千姫? より
「灘の国の星」ならぬ灘の星は彦星・犬飼星の手力男のようです。
こちらを見ると、西の織姫・東の彦星(犬飼星)でどちらも「たなばた」「あまのかわ」と呼ぶようです。
ベガ・アルタイル
(それぞれ別名を持つもの)メンタナバタ-オンタナバタ(香川・山口)、オッタノタナバタ-メッタノタナバタ(富山)、サキタナ-アトタナ(愛媛)、ニシタナバタ-ヒガシタナバタ(福井)、オキノタナバタ-ナダノタナバタ(京都)ベガ&アルタイル
(名前を共有するもの)タナバタ、女夫星ミョートボシ、フタツボシ、天の川アマノカワ(千葉)、天の川星アメンクラブシ (Wikipediaより)
牛座のプレアデス星団(スバル)はみすまる・いおつ御統です。牽牛は牛座を率いて昇る手力男。
白鳥座のデネブは古七夕フルタナバタ(京都)というそうです。「ふる」がでてきました。
高良玉垂(安曇磯良)は五十御統の昴の玉を垂らすひとではないでしょうか?
「 七夕たなばた」は「てなはた」、手長幡ではないでしょうか?
手長彦と手長姫、が「たなばた」になったのではないでしょうか?
どうして藤原氏が縣犬飼氏と婚姻関係を結び続けて大切にしているのか、なんとなくわかってきました。
稚日女は日の出の女神です。
丹生都姫は稚日女といいます。丹生都姫も稚日女です。丹生都姫は日の出の太陽とされたのでしょう。
神宮皇后の影響下で、廣田神社のあたりですとか、住吉明神とか一緒くたになってわかりにくくなっていると思いますので、まだ調べたほうがいいような気がします。
住吉明神は海部氏系ですが、海神族繋がりで、安曇磯良と同族なのでしょうか?
戸隠神社の中社社前の三本杉
そして、戸隠神社は中社社前の三本杉です。ほぼ正三角形に植えてあります。樹齢も700年くらいだそうです。
井光姫の里の人たちも下のほうに700年くらい前に移動してきました。出雲大社のうず柱も三本で三角形になっています。
偶然でしょうか?
700前年くらいは西暦1300年くらい、南北朝くらいでしょうか。
もしかしたら、安曇磯良の子孫の犬飼さんたちがこの時期に移動するようなことがあったのかもしれません。やはり南北朝動乱からみでしょうか。

阿知女作法と安曇磯良の部分は