諏訪の小野神社の御鉾様 武甕槌と中央構造線 波比祇神は鹿島神宮の武甕槌、阿須波神が要石 中央構造線に武甕槌がいる訳
信濃・武蔵・相模の三つの小野神社
天児屋根と関係して、天児屋根の子孫が移動してきた信濃の小野神社についてです。 武蔵・相模の小野神社はお参りしました。
武蔵一宮の小野神社は瀬織津姫と天下春命 (古くは丹生都姫・アラハバキと櫛真智命)
相模の小野神社はアラハバキと春日明神 を祀っていました。
まだ信濃の小野神社は行ったことがないので、確かなことではないと思いますが、机上で推理できる範囲で
信濃の小野神社の御鉾さま
諏訪大社の御柱は大きくて有名ですが、その原型と思われるのが、信濃の小野神社の御鉾さまです。 諏訪大社の御柱は四隅と中心に建てるそうです。 諏訪大社の鉾は、諏訪大社と諏訪神社によると
古くは「御杖」と呼ぶ、榊枝に髪の毛を結び付けたものを束ねた文字通りの杖の長さ軽さだったそうです。中世に書かれた『諏方大明神画詞』には、意訳ですが以下のように書いてあります。 各人が、自分の髪を二本つけた榊を献じた。神長官がとり集めて一束に結び合わせ、御杖と言ってこれを捧げた。
契約のために身体の一部である髪を捧げているようにも思えます (御鉾様の剣の脇に付けると頭髪?)
新しく造られた御鉾様のレプリカ(「風の大地」さんのサイトより)
小野神社 御鉾様について 玄松子さんのサイトさんより抜粋
「所有者 小野神社 小野神社の鐸鉾は、古くから祭事に使われたとの言い伝えが あるがどのように祭事に使われたかは不明である。諏訪神社に も同型の鉾があり、神領内を巡視する祭儀に使ったものと伝え られている。小野神社の鉾には、十二個の鉄鐸が結び付けられ さらに、麻幣がふさふさと結び付けてあり、七年目毎に行われ る御柱祭に一かけずつの麻幣を結ぶ習わしである。この鐸鉾が どのような祭事に使われたかは不明であるが、麻緒が多数取り 付けられており、しかもその古いものはぼろぼろに崩れるほど になっているところから、おそらく一定の祭儀に用いられたこ とが推定される。境内本殿に向って左方に藤池と呼ばれる御手 洗池があり、そのかたわらの玉垣内に「御鉾様」といわれる石があ り、神聖な場として足を踏み入れてはならない磐座となってい る。この石は方型で中央に孔があいているが、おそらくこの石 に鉾を立て、祭儀のとき神霊を招き降ろした重要な磐座であり、 この祭儀に神の依代として使用した神器ではないかと考えられ ている。-境内案内板-」
阿須波神と波比祇神
吉野裕子氏「蛇」によるとすでに縄文時代には、空になった蛇壺の穴に、蛇に見立てた樹の枝を立てていたそうです。それまでは蛇壺で蛇、しかも蛇巫女は毒ヘビを飼ってました。兄が毒ヘビに噛まれて死んだので、蛇を追い出したという話が伝わっています。
草枕旅ゆく君を幸くあれと斎甕据つ吾が床の辺に 万葉集巻17
庭中の阿須波の神に木柴さし吾は斎はむ帰り来るまでに 万葉集巻20
阿須波神は万葉集の歌からすると阿須波の神=蛇壺・斎甕
玄松子さんのサイトによるとhttp://www.genbu.net/saijin/asuwa.htm
ハヒキは境界、アスハは基盤で、ともに屋敷神をさす。 阿須波神は足盤、足場の神・足下の神。足で踏んで立っているところを守る神これらを総合して、ヰカシリ(居処領)の神と言った。「座」は「居処」、「摩」はシリの音転スリの宛字。つまり敷地の神で、注に「大宮地の神の霊」とある通りである。
こちらはウィキ
座摩神(いかすりのかみ/ざまのかみ、坐摩神)は、神祇官西院において祀られた次の5柱の神の総称。
生井神(いくゐのかみ/いくいのかみ)
福井神(さくゐのかみ/さくいのかみ) – 「栄井神」とも。
綱長井神(つながゐのかみ/つながいのかみ)
波比祇神(はひきのかみ) – 「婆比支神」とも。
阿須波神(あすはのかみ)
波比祇神は以前にでてきましたが、丹生都姫ことアラハバキを指すようです。
丹生都姫が「波比伎神」とされたのは、領地の境界を定める、忌杖をおこなっていたから?
丹生都姫が「波比伎神」とされたのは、領地の境界を定める、忌杖をおこなっていたからではないでしょうか?
神宮皇后も新羅でもここを領土と定めると杖突給い、「忌杖刺し給ひ」杖突神事を行っていました。
そのために、丹生都姫は波比伎神として祀られたのではないでしょうか。
丹生大明神告門(ニフタイミヤウシンノノリト)
大御名(おおみな)を申さば恐(かし)こし、 申さずば恐(かし)こき伊佐奈支(いざなぎ)伊佐奈美(いざなみ)の命(みこと)の御子、 天の御蔭(みかげ)、日の御蔭(みかげ)、丹生都比賣(にうつひめ) の大御神と大御名(おおんな)を顕はし給ひて、 丹生川上、水分(みくまり)の峯(みね)に上り坐(まし)て国かかし給ひ、 下り坐(まし)て十市(といち)の郡(こおり)、丹生に忌杖(いみづえ)刺し給ひ、 下り坐(まし)て巨勢(こせ)の丹生に忌杖刺し給ひ、・・・
「忌杖刺し給ひ」とは、神地の四至に杖を刺して標識とし、ここを中心としてその地方を開拓されたという意味だそうです。
小野神社の御鉾様はハヒキの神とアスワ神?
小野神社の御鉾様は、元々は境界や領土を定める契約の忌杖であり、それを四隅に突き立てることで境界(ハヒキ)を定め、中心とするためだったのかもしれません。
それが、境界を守るハヒキの神とあすわ神として、御鉾様や御柱となっていったのでしょう。
ハヒキの神(鉾・蛇・木=境界の神)であり、それを斎壺(土地・境界=あすわ神)に建てる
境界の神といえばクナトの神や、道祖神であり、細長い棒などで境界を表します。
今も神事で竹を立てしめ縄でくくって、結界を貼ります。
阿須波神(蛇壺・甕)というのは、縄文時代は蛇が入っていて、しかも毒ヘビだったそうで、やはり外敵の侵入を物理的にも、呪術的にも防ぐためではないでしょうか?
小野神社の御鉾様はハヒキの神+阿須波神
小野神社の御鉾様というのは、ハヒキの神+阿須波神と思われます。
小野神社のおぼこさまは鉾を立てて、依代としたとされます
ミシャグチ神が蛇と考えられていることから、これは蛇壺ではないでしょうか
蛇を蛇巫が蛇壺で飼っていたことから、御鉾様を立てるのは、蛇が蛇穴に入ることを表しているのではないでしょうか。つまりは魔除けなのでしょうか
新しく造られた御鉾様のレプリカ(「風の大地」さんのサイトより)
ミシャクジ神の依代の神使はこの本の表紙のように赤い衣を着ていたそうです
中国少数民族の苗族の守護神、蚩尤は赤をシンボルカラーにしています
諏訪の大祝の就任式は楓の樹の下で行われるそうです
苗族のトーテム、楓と同じです
吉野裕子氏はミシャクジ神を赤蛇(しゃくち)と考えています
猿田彦も魔除けの赤い服で、鉾を持っています
錦は「丹敷」なのかもしれません。

茅纏 (チキマ)の矛肖(ホコ)の例として
お写真は「示現神を楢原(神宿)に検証す」さんよりお借りしました
往古中山神社に五鉾を立てる祭事があり, 基壇となる石を四方及び中央に配し,その上におのおの鉾を立てて行われたようなのである。 この祭は,中山神社の最も奥秘の神事と言われ,この祭祀に使用される祭具の鉾を斎き祭ったのが,楢原村神宿の藤内-東内であると言われ, 藤内五家の矛殿はこの祭具ための特別の施設だということになる。 一宮(中山)社家説と藤内家伝とは, この点で完全に主張が一致している。 形状はまちまちながら, 確かに五本の矛も五家に伝世しているようなのである。
鹿島神宮の武甕槌は小野神社の御鉾さまと同じもの
ところで、「石を四方及び中央に配し」ていたのは,春日大社の御正体です。

春日大社の春日明神は鹿島明神から勧請されました。
その鹿島神宮の要石も小野神社の「甕」と同じ形です。(写真ウィキより)

そして、武甕槌というのは、「甕」のなかの強い「蛇」ツチという意味です。
武御雷は小野神社の御鉾様と同じものですね。
境界を守る、武甕槌は中央構造線という土地と土地の境を守っているのでしょう。
丹生都姫(波比伎神)は三日姫ともいいます。甕姫です。縄文の蛇壺のことです。
だから諏訪の御柱も、鹿島神宮の要石と武甕槌も、中央構造線という境に塞ノ神として位置しなければならないのです。

波比伎神が武御雷、あすわ神が要石・鯰
鹿島神宮でいうと、ハヒキの神(鉾・蛇=境界の神)が武御雷であり、斎壺・蛇壺=あすわ神が要石です。
そして鯰もあすわ神です。
鯰というと、丸っこい魚を想像しますが、鯰=狗魚ですので、「狗」はウナギ・雷魚・蛇・葦など細長いもの・細長い船までふくまれます。
このあたりは ようこそ♪ や
豊は雷 姫大神は豊姫・丹生都姫・稚日女尊 豊=狗・雷・蛇・ナマズ・雷魚・ウナギ・蘿・蔦 参照
ナマズ=狗(蛇のように細長いもの)=中央構造線ということがお分かりになると思います。

そして、地震が起こると金が地中でできるそうです。まさに錬金術
水銀鉱脈も中央構造線添いにあるそうです。
だから鉱物資源を求めて、丹生都姫たちは中央構造線にいるのです。
「波比伎神」丹生都姫の塞ノ神アラハバキ、水の神瀬織津姫への変遷
丹生都姫は「波比伎神」とされています。
丹生都姫が領主として領地の境界を定めた忌杖から、忌杖が境を守る神・小野神社の御鉾様へと変化し、道祖神やクナトやアラハバキのような塞ノ神として境の神へと変化していったのではなかろうか?
そして、軍事では塞ノ神、鉱物と水の女神としての丹生都姫・アラハバキが後世に水銀採掘が廃れるとともに、律令制の農業の水の女神として瀬織津姫やおかみ神に変化しました。
塞ノ神としての丹生都姫・アラハバキの性格を受け継ぎ、瀬織津姫も塞ノ神として扱われるようになっていったと思われます。
藤原氏が春日大社の比売・丹生都姫とタケミカツチを欲しがったか、わかってきました。
さて、賢明な読者さんはおわかりになったとおもいますが、武甕槌の正体は、それはまた次回に。 ふっふっふ・・・・
瀬織津姫が記紀に出て来ない理由は封印されていたからではない
やはり、アラハバキは丹生都姫であって、瀬織津姫ではありません。
瀬織津姫は律令制の元で保護されて出てきた水の女神です。
記紀に出て来ないのは、律令制施行以降に丹生都姫に変わって瀬織津姫が出てきたからでしょう。
その証拠に「勅許」で瀬織津姫を祀る神社も建立されています。
記紀の前に丹生都姫大神と言われていた丹生都姫は、記紀はもちろん大祓祝詞にもでてきません。
記紀が書かれて、それから農業の水の女神として瀬織津姫がクローズアップされてきたから、記紀には登場しないだけでしょう。
瀬織津姫に上書きされてしまったのは丹生都姫でしょう。
丹生氏の力をそぎ、鉱物と水の女神丹生都姫の名前を記紀に出さず、律令制に便利な水の女神としておかみ神や瀬織津姫を律令国家は広げていきました。
その歴史を調べもしないで、思い込みや感覚でネットや書籍で一部の人間が瀬織津姫封印封印と流布してしまったために、多くの人が瀬織津姫が封印されていたと思い込んでしまいました。
それは、封印されていたと思い込ませることで、封印されていたことにするための呪術だと思った事はないですか?
最近は商標登録という本当に恐ろしい瀬織津姫封印が実行されてしまいました。
速やかに「官の権力を用いた瀬織津姫への封印」が解除されることを願います。
<ご参考>
今は 神奈川県厚木市の小野神社は祭神は天下春命になっていますが、客人神として祀られているアラハバキや春日明神が地主神だそうです。
今は摂社にあるアラハバキと春日明神です。
(注)マロトとは門客人のことで、門客神とは、「客人神(まろうどがみ)」のことで、「客人神」は地主神がその土地を奪われて、後からやって来た日本神話に登場する神々と立場を逆転させられて、客神となったと考えられているようです。 http://sanpomichi114.web.fc2.com/izumo.html
武蔵一宮「小野神社」 (式内小社論社・郷社・府中市住吉町鎮座) 御祭神 天乃下春命(アメノシタバル命) 瀬織津比売大神(セオリツヒメ大神) 創立年代は不明。
元の祭神は丹生都姫と櫛真智命
知々夫国造(ちちぶのくにのみやつこ・ちちぶこくぞう) 武蔵国西部を支配した国造。秩父国造とも。 祖先 八意思兼命。高皇産霊尊の子。思慮深い神。天児屋根命と同一神説がある。 『国造本紀』には崇神朝に10世孫の知々夫命が知々夫国造に任じられたとある。 氏族 大伴部氏か。姓は直。 後裔 天上腹・天下腹・・・・景行朝の人。大伴部氏の祖?磐鹿六狩命に従って天皇に料理を献上した。 大伴部赤男・・・・奈良時代の武蔵国入間の豪族。外従五位下。知々夫国造の末裔か?
春日氏は和爾氏で、ウィキによると
「出自については2世紀頃、日本海側から畿内に進出した太陽信仰を持つ鍛冶集団とする説がある。 本拠地は旧大和国添上郡和邇(現天理市和爾町・櫟本町付近)、また添下郡。 6世紀頃に春日山山麓に移住し、春日和珥臣となる。 大宅氏 小野朝臣 粟田氏 柿本氏 布留氏(社家)」
布留氏は石上神宮の社家
鍛冶はカーチで「はるひのかすが」の鍛冶・カーチが=春日
系図もウィキによる
<
p style=”font: 14px/23.8px ‘Hiragino Kaku Gothic Pro’, ‘Lucida Grande’, ‘segoe UI’, Meiryo, Verdana, sans-serif; color: #333333; text-transform: none; text-indent: 0px; letter-spacing: normal; word-spacing: 0px; white-space: normal; widows: 1; font-size-adjust: none; font-stretch: normal; -webkit-text-stroke-width: 0px;”>孝昭天皇 ┃ 天足彦国押人命 ┃ 和邇日子押人命 ┣━━━━━━━┓ 彦国姥津命 姥津媛(開化天皇妃) ┏━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━┳━━━━━━┓ 伊富都久命 彦国葺命 小篠命 乙国葺命 ┏━━━━━━┳━━━━━━━┫ 【丈部氏祖】 【吉田氏祖】 彦忍人命 建耶須禰命 大口納命 【飯高氏祖】 (武社国造) ┃ ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓ 八千宿禰命 難波根子武振熊命 彦汝命 真侶古命 (吉備穴国造) 【和邇氏祖】 【葦占氏祖】 (額田国造) 【安那氏祖】 【春日氏祖】 【猪甘氏祖】 【真野氏祖】 【壬生氏祖】