ようこそ
記事を出す前に、確認したかったので、貫前神社に行ってきました。
雷窓の写真も撮ったのですが、携帯ですので、あまりアップはとれず









































































































































































こちらのほうが、三峰神社より遠いのですが、日帰りしました。
三峰のように氣とりして元気になるわけでもなく、幣立神宮も下り宮ですが、幣立のように和むというわけでもなく・・・
高崎から鈍行列車に二時間以上乗り続けたら、お尻が痛くなりました。帰りだけはグリーン車にすればよかったです。
貫前神社の細工は三峰より細やかで美しい気がするのですが、細工を見ても狂喜乱舞するわけでもなく
貫前神社はやはり鎮めの宮だからでしょうか。
背面に丹生川がありますし、山と沈んだ地に建つ違いでしょうか?
不思議な感覚でした。
この神社の祭神も瀬織津姫と書いておられる方がいらっしゃいます。
それは違うのでは?と言う検証なのですが・・・
貫前神社の稚日女尊は瀬織津姫ではなく丹生都姫
一宮貫前神社 橘 三喜(たちばな みつよし)の『諸国一宮巡詣記』によると、
貫前神社の祭神は「本尊稚日女尊、相殿経津主命」と記載され主神は女神とされています。
稚日女尊は丹生都姫のことを指します。
丹生都比賣神社(和歌山県伊都郡かつらぎ町)では、祭神で、
水神・水銀鉱床の神である丹生都比賣大神(にうつひめ)の別名が稚日女尊であり、
天照大神の妹神であるとしている。
生田神社の丹生都姫(稚日女尊・わかひるめのみこと)
兵庫県西宮市の越木岩神社には稚比売命の磐座があります。
甑岩がある越木岩神社の境内北座は、生田神社と同じ稚日女尊(わかひるめのみこと)の磐座とも呼ばれる
磐座が破壊されるという危機にあった越木岩神社ですね。
甑岩、というと甑の筒、住吉大神を連想します。そして稚日姫尊こと丹生都姫を祖神といただく丹生氏が神宮皇后を助けて新羅に行きました。
住吉大神といわれているのが安曇磯良です
生田神社の祭神 稚日女尊は真朱(まそほ)の丹生都姫
生田神社も瀬織津姫と言っている人もいらっしゃいますが、祭神の稚日女尊は丹生都姫です。
感性で神をとらえるのも大事だと思いますが、歴史を無視して何でもかんでも瀬織津姫にしてしまうのは如何かと思います。
祭神となるのはそれなりの理由があるのですから
生田神社の祭神は稚日女尊(わかひるめのみこと)
201年に神功皇后の三韓外征の帰途、神戸港で船が進まなくなった為神占を行った所、稚日女尊が現れ「吾は活田長峡国に居らむと海上五十狭茅に命じて生田の地に祭らしめ。(=私は“いくた”の“ながさの国”におりたいのです。“うなかみのいそさち”に命じて生田の土地に祀らせてほしい)。」との神託があったと日本書紀に記されている。
稚日女尊は丹生都姫の別名です。
丹生氏が神宮皇后を助けた功績で、丹生氏の祖神、丹生都姫は天照大神の妹分ということで、天津神となりましたので、妹ということで稚日姫ともいいます。
真朱(まそほ)の姫ともいいます。

図は博物館のポスターより
このポスターは丹生都姫の土地を空海の高野山に貸したことを表現してるのでしょうか?
神宮皇后を助けたナマズは丹生都姫のトーテム
神宮皇后を助けたナマズは丹生都姫のトーテムとも、鯰=狗魚であることから、阿多隼人の操る船とも考えられます。船を朱塗りにしたとも言われます。
丹生都姫 忌杖刺し給ふ国見の出発の地 櫛眞智命神は天香語山の神 より
神宮皇后は丹生氏の協力もあり、反乱軍に勝利した後、吉野の銀峯山山頂で、国見を行った際、丹生氏の祖霊で国津神の丹生都比売大神・朱の大神は伊弉諾伊邪那美の養女という資格で、 天津神に昇格され、天津神丹生都比売大神として、国見したまう、と神領安堵しました。
丹生大明神告文の前段には、
「丹生都比売大神の大神と大御名を表し給いて、川上の水方の峰に上りまして、国かかし給いて・・・」
とある。」(「天河への招待」大山源吾著参照)
丹生氏は神宮皇后も助け、吉野の天武天皇も助けました。
神宮皇后を助け、勝利に導いたので、丹生氏の祖神丹生都姫は天照大神の妹として、天津神に格上げされました。
その時「丹生大明神告門」がよまれました。
丹生都姫 忌杖刺し給ふ国見の出発の地 櫛眞智命神は天香語山の神
真金吹く丹生川と貫前神社
真金吹く丹生川が貫前神社の近くを流れています。神社の背面です。
どうしたって吉野の丹生川上神社と関係があるのだろうと思います。丹生川上神社は高見川添いにあります。
貫先神社前面にある丹生川の支流は、現地の看板でみたら、高田川でした。名前が似ていなくもないです。
真金(まかね)吹く丹生の真朱の色に出て云はなくのみそあが恋ふらくは 万葉集
丹生川の上流の下丹生古墳群の近くにこの歌の歌碑があるそうです
石灰石でできた下丹生古墳は、あるいは息(おき)長丹生(ながのにゅうの)真人(まひと)の墓であるとも言われている。
後述するが、米原市を中心とするこの辺りの土地は、応神天皇や神功皇后などとの関係が深く強い勢力を持っていた息長氏の勢力範囲内にあったものと考えられている。 http://www.sugatani.co.jp/blog/?p=1752
やはり丹生川の丹生氏でした。神宮皇后もでてきました。真人は天武天皇の八色の姓の皇族に与えられた姓ですが、貴人の名前としても使われます。
真澄探當證の天照大神と豊姫
「真澄探當證」では火明尊の国譲りの後、孫娘豊姫が天照大神であった「大日孁貴 おおひるめのむち」に側近として仕えることになったと書いてあります。
もしかしたら、大日孁貴・おおひるめのむちは神宮皇后のことかもしれないですし、持統天皇とイメージを重ねているかもしれません。
持統天皇の側近というと、縣犬飼三千代とイメージがダブります。
豊姫(丹生都姫)は雷姫 貫前神社の雷の窓
貫前神社には雷の窓がありました。
丹生都姫のまたの名は豊姫です。
http://www2.ocn.ne.jp/~jamesmac/body443.html 茨城県の鹿島神宮に伝わる「八幡宮御縁起」には以下のような文章があります。 「磯良と申すは「筑前国鹿の島の明神」の御事也。常陸国にては鹿嶋大明神、大和国にては春日大明神、是みな一躰分身、同躰異名にてます」 同様の記述は「謡曲」にもあり、「香椎」の中では以下のように描写されています。 「(前略)干珠といふは白き玉。満珠といふは青き玉。豊姫と右大臣に持たせ参らせて。三日と申すに龍宮を出で。皇后に参らせさせ給ひけり。かの豊姫と申すは。川上の明神の御事。あとへのいそらと申すは。筑前の国にては。志賀の島の明神。常陸の国にては鹿島の大明神。大和の国にては春日の大明神。一体分身同体異名現れて。御代を守り給へり。その後皇后は。仲哀天皇の御笏を。忝くも取出し。かす井の浜にある。椎の木の三枝に。置き奉り給ひしに。シテ「この香椎の香ばしき事。諸方に充ち/\て。ぎやくふうにも薫ずなる。ゑんしやう樹にも異らず。偖こそこの浦もとはかす井と言ひけるを。香ばしき椎の字に。書き改めて今までも。香椎の浦風の治まる御代となるとかや。(後略)」
丹生都姫は川上明神、豊姫、神宮皇后の妹
謡曲「香椎」では
丹生都姫が川上明神で、豊姫、神宮皇后の妹というのだそうです。
安曇磯良・あとへのいそらが志賀明神で鹿島明神で、春日大社の春日明神
そして安曇磯良・あとへのいそらが志賀明神で鹿島明神で、春日大社の春日明神だというのです。
お能の世界では、史実には書けないことを良く謡曲中に散りばめて伝えることもします。
ということを証明する研究を続けておられる研究者もいらっしゃいます。
火遠理命(ほおりのみこと)・山幸彦が海神豊玉彦の娘豊玉姫から干珠満珠を貰います。
火遠理命は『古事記』によると、日子番能邇邇藝命(ひこほのににぎのみこと)と木花之佐久夜毘売(このはなさくやひめ)との子で三男。
海幸彦は隼人族の祖とされます。
と、ここまで、前置きで続きます
安曇磯良・あとへのいそらが志賀明神で鹿島明神で、春日大社の春日明神
どういう事でしょうかね?