那加手力雄神社 織田信長が恐れた唯一の神社2 信長の花押入り書簡

織田信長が岐阜城落としたときに、邪魔になるからと焼き払おうとしたのが相模原市の那加手力雄神社です。
でも、焼き討ちしようとしたら、にわかに霧がでてきて周りが見えず、信長は金縛りにあい、落馬したため慌てて焼き討ちをやめ、この神社の神領安堵したそうです。
宮司様にそのようなことがあったのですかとお尋ねしたら、そういう伝承がありますとのことでした。
手力男が別の名前のいわ(ほ)おしわくの命で祀られている吉野の大蔵神社や川上鹿塩神社 や岩神神社に御参りしたときに伺った話ですが、川上鹿塩神社でも山火事があり、でも川上鹿塩神社の社殿の周りだけ焼け残ったそうです。
川上鹿塩神社 吉野郡吉野町樫尾 「五社さん」 (写真あり)
それで、依代などを山の下の十二社神社(通称 樫尾神社)に移動しようとしたけど、社殿の周りだけ焼け残ったので、こちらには神様がいらっしゃるからと神職の方が反対なさったそうです。
それでそのままご神宝やら依代やら山の上の神社にそのまま安置してあるそうです。
なので、今だに火伏の力が強い神様だと思いました。
それもそのはず、手力男は海神豊玉彦の息子だそうです。
海神の息子で、かつ手力男の元の名は級津彦で、手力男は岩戸開きのとき、風を吹かせて岩戸を開いたそうです。
それで「日神を抱く太力男」の太力男命となったそうです。
山火事の時も水と風で火を消し止めたのだと思いました。
手力男は塩満珠と塩干珠を受け継いだそうです。
海人族なので、潮の干満を見るのが上手かったのでしょう。
那加手力雄神社の写真をのせようと思ってそのままになってましたので、写真を載せます。
ちょうどお盆でお祭りの次の日で社務所で虫干しをしていたので、宮司様の許可をいただいて写真をとらせていただきました。
虫干しの光景

昔のこのあたりの地図
こちらの神社のご神領だと思います



こちらが織田信長公の花押入り直筆書簡です。

こちらの神社への放火や乱暴狼藉を禁ずるという内容と
こちらの神社のご神領を安堵するということが書かれています。