あの織田信長が恐れ敬った唯一の神社があります。
那加手力雄神社 です。
何故なら、信長がこちらの神社を焼き討ちにしようとしたとき、霧がどんどん出て来て、火もかけられず、あの信長が金縛り(????)にあったため、焼き討ちが出来ず、神威を恐れ、神領安堵し、その花押入り書簡も手力雄神社に残っています。
手力雄神社 の宮司様もそのような伝承があるとおっしゃってました。
帰省した折に、お参りしたら、ちょうどお祭りの次の日で、古文書の虫干しをしておられたので、信長の花押入り書簡も見せていただいて、宮司様のご許可をいただいて、お写真をとらせていただきました。
(まだアップしてません)
比叡山延暦寺でさえ焼き討ちにし、神も仏も恐れない織田信長が恐れた、唯一の神社
それが 那加手力雄神社 です。
ただ今建て替え中ですので、みなさま、こぞって建て替え費用を奉賛すれば、霊験あらたかでしょう。
信長が恐れた唯一の神社手力雄神社
手力雄神社
住所
〒504-0043 岐阜県各務原市那加手力町4
行き方
岐阜バスコミュニティ岐阜各務原線「手力雄神社前」バス停下車、徒歩すぐ
JR岐阜駅バスターミナル(岐阜駅北)13番のりば、「各務西町営業所」行き
名鉄岐阜のりば(名鉄岐阜駅西)6番のりば、「各務西町営業所」行き
各務原市ふれあいバス西部・鵜沼線「山後町公民館前」バス停下車、徒歩3分
名鉄各務原線新加納駅から北へ1km
私は今回は妹に車で連れていってもらいました。
それで、電車やバスでは行ってませんので、確認はしてません。
こちらはウィキより
各務原市の那加手力雄神社の祭神の天手力雄神は、戸隠神社の影響が強いといわれている。事実、本殿の軒に龍の彫刻があり、龍に関わる話が伝わっているが、これは戸隠神社の九頭竜社の影響という。
岐阜市の手力雄神社は、貞観2年(860年)、朝廷の宮中の祭神を分祀したもので、元々の祭神は伊勢神宮の天手力雄神であるという。手力雄神社は長森13ヶ村の郷社であり、那加手力雄神社は那加13ヶ村の郷社である。
そう、犬飼さんを追っていて、戸隠神社の手力男というので、お参りしてみたいなと。
工事中でしたが、見事な龍の彫刻を拝見しました。
創建不詳
社伝には5世紀末期ごろ中里(今の岐阜県各務原市那加地区)を支配していた豪族により、山の中腹に磐座(いわくら)祭祀として神様を祭ったのが始まりとされます。
美濃國神明帳に、真幣明神(みてぐらみょうじん)のご神名が見られお祀りされていたご祭神がそれと見られる。
主祭神手力雄神は、古くは佐良木郷八ヶ村の山中に祀られていたのを、後に現社地に奉還され佐良木郷の産土神として崇敬されたと伝わります。
672年、壬申の乱で功績のあった村国男依が各務を領地として与えられ各務・鵜沼地区を支配したのち、各牟氏がこの地域を支配することとなります。 手力雄神社のサイトよりhttp://www.tezikarao.org/
真幣明神(みてぐらみょうじん)
手力雄神社は市の北西部、那加手力町にある神社です。神社の北側には小さな山があり、古代、この山に神様が宿る「真幣岩(みてぐらいわ)」をおまつりしたのが神社の始まりだとされています。
真幣岩(みてぐらいわ) 各務原市のサイトより(写真も)
神社の拝殿奥は小高い岡になっていて、古墳が何基かあり、中腹に石群があり、その一つのようです。
古墳がその岡にありましたので、そこを登っていくのは古墳の主さんに失礼かと思い、登りませんでした。
古墳にご挨拶して、遠くから磐座の写真を撮りましたが、遠いので写りはいまいちです。
神社は古墳を拝むために建てられたという古い形が残っているのがこちらの那加手力雄神社だと思いました。
それよりもっと古い形が、磐座に神卸をするという形態なのでしょう。
真幣岩の写真を見ていると、井光の里の井光神社のご神体のおとさんこと井氷鹿に似ています。
どちらも縄文時代からの磐座信仰のようです。
井光姫はおとさんに祈り、神武天皇は勝利しました。おとさんは天岩戸のモデルと言われています。
織田信長は那加手力雄神社を焼き討ちしようとして、神威に撃たれ、反対に崇敬しています。
どちらも三角形っぽい磐です。

真幣明神も信長を金縛りにし、焼き討ちをやめさせるほどの霊威を振るいました。
おとさんは神武天皇に勝利をもたらし、倭を手中にすることができました。
戸隠神社も天岩戸とされる戸隠山というか、磐座信仰で、戸隠神社の奥社の宮司家は以前は犬飼氏で犬飼さんたちが関係しています。
天岩戸か手力男が関係しています。
記紀神話取り入れられた天岩戸・磐座信仰ですとか、犬飼氏が祖として祀る手力男の祖が高木神・神魂命で、天皇家の舅であることから、どちらも戸隠とも伊勢の内宮の手力男とも関係があるような気がします
隼人の、元々の地主神であったから新たに日本に来た天皇家は姻戚関係を結んだのでしょう。
縣犬飼・犬飼氏も表に出ないので、どういう一族か知られていないのですが、阿多隼人の天皇家の外戚で、それで側近に縣犬飼氏がいるのでしょう。
神話では先住民を天岩戸を開けて、新しい太陽神を出すという役まわり、導き(道引き)の神とし、手力男はあの世とこの世の境にいる神で、黄泉の国とこの世の境の岩戸を開け、あの世の太陽神が乗る貴舟の神でもあるから。
境湊と今もいうように、高天原(高地)の境の港まで地上から遡る、手力男は実際に船で川を遡る 向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊 の「速狭騰尊」、高天原の境界の港まで川を速く遡る神なのですから。
紀州(きしゅう・貴舟)では手力男が以前は「太陽神」として祀られていました。
国懸神は手力男とされています。https://prt2.tukiyononeko.net/mukate.html
でもこの手力男の象徴としての鏡は「出来損ないの鏡」だとされました。
後からきた天孫族に反抗したからでしょうか。
だから背男(反逆者)と言われるのかもしれません。
犬と手力男 手力雄神社は犬上から犬山に向かう?
岐阜には三つの手力雄神社があり、大垣市と岐阜市、各務原市にあるのですが、大垣の手力雄神社は
長徳四年二月菅原儀右ェ門定勝なるもの近江國犬上郡より当地へ移り来る後菅原姓改めて沼波とす。長保三年四月同人創って三社の祠宇を栗木場に建つ。今福田新田西字大門是なり。其の本社は白鬚明神左若宮右手力雄命なり。天下大乱兇賊拠って巣窟として行旅の人を脅かす。故に時の人難儀森と称す後土人訛って幾森とす。
とあるように、近江國犬上郡から来たようです。
犬飼の犬は井開の「井」磐裂の「磐」
近江から、長良川と揖斐川を越え、木曽川添いに遡ると、犬山に行きます。
手力男を祖神としているのは縣犬飼・犬飼氏などですので、「犬」がつく地名のところにいるというか、犬飼さんたちが鉱物資源を求めて、移動したところに手力男を祀っているようです。
犬飼は星座の犬飼星からとったのでしょうけど、犬は犬ではなく水銀ほりなどの鉱物を掘る「井」から来てると思います。
井・猪・犬・亥など音は「井」です。
手力男を太陽神として祀っていた紀州の国懸神社は「亥」の森にあったそうです。
鉱物の井戸を開く、「井開」さんたちだったのではないでしょうか?
「真澄探當證」に刺青の猪狩老人が出てきます。この人はもと天皇の側近で大臣でした。この人も天皇家の外戚筋の親類で、縣犬飼・犬飼氏と同族ではないでしょうか。
そして手力男の四国の天岩戸の天石門別神社の近くには井開さんがいらっしゃいます。
天石門別神社の三つの大石を小型にしたものが船盡神社の三つの石のモニュメントだそうです。
それを更に石を柱にしたてたものが木島坐天照御魂ではないでしょうか?

写真はWikipediaより
木島=きしゅう・紀州=貴船ですから
もしかしたら、磐を開いて開墾した磐裂の「磐」かもしれません。
岩戸開きは「磐裂」の「磐」かもしれません。
磐を割って開墾したから岩戸開きでしょうか?
琵琶湖と大垣の手力雄神社近くに朝倉山や南宮山があり、南宮大社があります。
こちらもたたらや鉱物・鉱業と関係があります。近江國犬上郡には多賀大社もあります。
比良神は境界の神
白鬚明神は、近江の白鬚神社は日本の白鬚神社の総社です
白鬚神社
「国史に「比良神」と見える神名が当社を指すとされており、元々の祭神は比良山の神であるともいわれる」
背後の山に天岩戸があり、磐座があるそうです。山稜を天岩戸というそうです。
その近くにある磐座も三角形で、おとさんや那加手力雄神社も三角形です。
三角は神さまアンテナなのでしょうか?
大和岩雄氏の『神社と古代民間祭祀』(白水社)では
「「比良」は「黄津比良坂(よもつひらさか)」の「ヒラ」であり、境界の意味をもつ。」そうです
「ひら」は「てぃだ」からきてて、太陽かな?と思ったのですが、境界のようです。
沖縄方言と言っていいのか、沖縄古語と言った方がいいのか
「坂」のことを 「ヒラ」「ビラ」「フィラ」と発音するようです。さらに 「上り坂」がフィラで 「下り坂」をサカと使い分けていたそうです。
沖縄文化はとても古い独特の文化で
この「ヒラ」「フィラ」ひとつとっても 日本の「古事記」にまで 繋がりそうです。出雲に「黄泉比良坂(よもつひらさか)」というのがありますが
この名前の 「ひら」「さか」という二つの坂を表す表記がされていることにも
納得がゆきそうです。
こころは 青空:沖縄の坂 http://blog.livedoor.jp/perret/archives/52084470.html より
ひらさかで峠の意味で登りと下りの境界
登り坂と下り坂で、峠で、ひらさかで峠という意味になり、峠は山の下り昇の境目ですから、境界ということでしょう。
goo国語辞書によると とうげ【峠】の意味は
《「たむ(手向)け」の音変化。頂上で通行者が道祖神に手向けをしたことからいう》
だそうですので、道祖神はやはり境界の神ということでしょう。
白髭神社のご祭神の猿田彦も天八街にいた神であり、境界にいた神です。
境界の神、すなわち「ひらさか」神の「比良神」です。
船戸の神・岐神で境界を守る手力男
境内の外の若宮に手力雄はいますが、これはアラハバキと同じく、元々の地主神が境界の神として、神域を守ると言う意味で、「御門の神」として祀られているのかもしれません。
やはりあの世とこの世の境の「黄泉平坂」の「ひら・比良」神=登り坂の神・境界の神は船で遡る手力雄、そうでなければ他の境界の神でしょう。
高天原に船で遡る・坂登る神・・・ありましたね、高い山に船を上げるお祭りが
現在のご祭神猿田彦も天の八街にいた神、天鈿女と夫婦になる
手力男の后神は船盡比賣命で貴船の女神・高おかみ、撞賢木厳御魂天疎日向津比賣
白山菊理姫と言われている女神なのでしょうか?
白髭神社の境外に手力男の若宮神社があります。
これはアラハバキと同じで、元々の地主神の比良神が土地を貸しつつ(??)境界の神として境内ではなく、門戸神として祀られるのと同様です。
背後の山に岩戸社があり、磐座があるそうです。山稜を天岩戸ということから、天岩戸をあの世とこの世の戸として、境界の神の「比良神」を祀っているここと合致します。
那加手力雄神社も古墳があり、磐座がある。同じ形態です
山稜を天岩戸という、つまり峠という境界・あの世とこの世の境です。
比良神は境界の神ということで、記紀に合わせてご祭神は猿田彦とされたのでしょう。
猿田彦も手力男も境界の神ということで一致します。
比良神を祀っていて、新羅の移民が来て、新羅(しら・しるら)の白を重ねた ?
比良神(手力男?)を祀っていて、新羅の移民が来て、新羅(しら・しるら)の白を重ねた ?
「比良・ひら」だったけど、新羅人が来て、
新羅の「し(る)ら」の「しら」に、「白」を尊ぶので「白」の字があてられた
「ひら」を「しら」に変化させて、

穀物の神を祀ったようですので
「しら」の「けひ」、新羅の穀物神で、白髭となっのではないでしょうか?
比良山は冬は雪を被って白いので、比良山=白い山です
でも、元々は国津神の比良神で、比良神は境界の神ということから、記紀神話に合わせて手力男としたのではないでしょうか?
アラハバキと成り立ちが同じで、地主神が境内から出されている。
手力男が天津神とされるのは、高い山・高天原に住んでいたから
新羅の移民がきて、「しらけひ」から白髭となってしまい、境内から境外に出され、アラハバキ同様境界の神となった。
新羅、百済、高句麗など移民が来るたびに、ご祭神が塗り替えられて元々の国津神や地主神が外に出されてしまったからなのか?
主祭神として猿田彦はよくて、手力男ですとまずいことでもあったのかしらん?
もしかしたら、手力男を祀る人達が先に来て、狐トーテムの姫氏がきたのかしら?
このあたりのことはよくわかりません
続きます
