雪・雪・ゆき・・・
氷点下10℃
節分も過ぎたのに
二戸の帰り道、何となく、九戸城の跡に寄りたかったけど、あまりの積雪で、城跡は雪掻きも誰もしていないので、タクシーで寄ってもらっても、歩けないからと、いけなかった。
以前、義父が連れていってくれた
九戸城、別名 福岡城、宮野城
本丸跡か二の丸跡かで
「ここは、滝廉太郎の”荒城の月”のもとになった場所だ」と聞いた途端、何故かぶわーっと涙が溢れてきた。
『荒城の月』
土井晩翠(ばんすい)作詞,
滝廉太郎作曲
一 春高楼の花の宴
めぐる盃かげさして
千代の松が枝(え)わけいでし
むかしの光いまいづこ
二 秋陣営の霜の色
鳴き行く雁の数見せて
植うるつるぎに照りそひし
むかしの光いづこ
三 今荒城のよはの月
替らぬ光たがためぞ
垣に残るはただかつら
松に歌ふはただあらし
四 天上影は替らねど
栄枯は移る世の姿
写さんとてか今もなほ
嗚呼荒城のよはの月
「土井晩翠の歌碑
昭和19年林檎狩りに訪れた晩翠は、九戸城の悲劇を聞き自ら筆をとり「荒城の月」の書を残し帰りました。それをそのまま刻んだ碑です。繊細な書体と哀愁を帯びた文体は古城に相応しいものです。」二戸市観光課サイトより
南部鶴
(清和源氏義光流) 軍旗は九曜紋
跡目争いの結果、最後まで豊臣政権に反抗した形となった九戸政実が降伏開城した後、九戸政実や重臣の首と引換に城内のものの命は助けるという条件を反古にされ、二の丸に押し込められ、女子供に至るまで、全員なで斬りにされ、惨殺されたそうです
天正19年(1591年)9月4日落城 これをもって豊臣秀吉の天下統一がなる
秀吉が約束を反古にし、女子供に至るまで惨殺したことは歴史では記されていない
城内兵5000人のうち、半数が戦死、城内には2500人いたことになる
城には火がかけられ、その炎は三日三晩燃え続けたといいます
二の丸跡からは、無数の刀傷を負い、あるいは鉄砲を撃ち込まれ、首をはねられた遺骨が出土したそうです
義母によると、悲しいことに、ある時期になると、城内のある場所で、いまだに成仏なされてない方のうめき声がきこえてくるそうです
感ずるところがあったから、涙が溢れてきたのか
このあたりは福岡といいます。
でも地元の人たちはみな、福岡城と呼ばずに、九戸城と呼んでいます
「元の九戸氏への強い思い入れです。百年以上治めた九戸氏に対し、南部公は短期間で盛岡へ移った事や、九戸方の悲壮な最期を目の当たりにした人々の思いは、謀反人であっても密かに弔い続けた事を記す古碑にも現れており、あえて「九戸城」と呼び続けたのです。(二戸市観光課サイトより)」
「中世の平山城で、主に南部氏の一族である九戸氏が居城した。正確な年は不明である[1]が、九戸氏が九戸城を築城し移ったのが、『系胤譜考』では7代目光政のとき、『奥南落穂集』では12代目信実の代という。また、11代目(『奥南落穂集』の代数では14代目)政実が二戸を加増されて移ったとされる説もある。
「九戸政実の乱」以後、蒲生氏郷によって改修されて南部宗家の本城となった。
西側を馬淵川、北側を白鳥川、東側を猫渕川により、三方を河川に囲まれた天然の要害で、城内は空堀によって、本丸、二の丸、三の丸、若狭館(わかさだて)、外館(とだて、石沢館とも)[松の丸などの曲輪群を形成し、本丸の一部には東北最古の石垣をもつ。東北地方では有数の規模であったが江戸初期に廃城となった。」(Wikipediaより)
城は三方を川に囲まれ、眼下遥かに川や街並みを見下ろす幽邃な趣があります。
建物の遺構は残ってませんが、石垣や空堀は残っています
東京ドームの10倍の広大な敷地です
城跡で、年に一度、秋の満月の夜、灯りはともさず、みんな筵に座って、月明かりだけで、篠笛や琴を愉しむ集いが開かれるそうです 月見の宴
駐車場がないから、みなさん歩いて来て下さいとのことです
月明かりのみで、何処からともなく笛の音が聴こえるのは、本当に風情があって良いそうです
落城で亡くなられた方々の心が、楽の音で少しでも慰められますように